瞬が彼に会ったのは、日本最高の地価を誇る街の雑踏の中だった。 休日の午後を楽しむ人々が行き来する歩道の一角で、彼は、見るからに怪しい風体の男に難癖をつけられ難儀していた――というより、彼はその男に呆れているように、瞬の目には見えた。 彼より頭2つ分も小柄な男が、甲高い声で何やら一方的にわめいている。 通行人たちは、休日の歩行者天国を幸いに、対照的な二人の人物のいる場所を迂回し、ある者は二人を横目に見、ある者は視線を逸らして、悶着を起こしている者たちと関わり合いになることを避けている。 「絡まれてるのかな」 多くの人間が行き交う通りの50メートルも前方で起きている騒ぎに 瞬が気付いたのは、そんなふうに“善良な市民”たちが彼等を避けていたからだった。 「誰も助けないんだね」 それがこの国に生きる人間の常識的対応なのかと、軽い失望と共に瞬が呟く。 それは、瞬がつい半月前まで暮らしていた島でなら 考えられない無関心だった。 「助けたくても、あれではどちらを助ければいいのかわからないだろう」 瞬の横を歩いていた氷河は、あまり関心がなさそうにそう言った。 難癖をつけている男の方が体格面ではるかに相手に劣っている。 彼が自分を誇示するような派手な色の衣服を着けてさえいなければ、彼に難癖をつけられている黒衣の青年は、子供の癇癪に困っている大人のようにしか見えなかった。 派手な色の――品のない原色の――シャツを着た男は、どう見ても暴力団関係者である。 瞬が隣りにいなければ、氷河も、善良な市民を装ってそんな騒ぎは無視していただろう。 だが、現実には彼の横には瞬がいて、瞬は絡まれている人間に心配そうな目を向けていた。 誰かが手を貸さなければ、瞬は自分で止めに入ろうとするに違いない。 だから氷河は仕方なく、その一歩を踏み出したのである。 「こっちに来い」 原色の服を着た男の足元に凍気でちょっとした小細工をして彼の動きを封じてから、氷河は漆黒の男に顎をしゃくった。 靴が石畳の歩道から離れないことに慌てている原色男を尻目に、漆黒の瞳の男は氷河と瞬の側にあまり慌てた様子もなく歩み寄ってきた。 間近に見ると、彼はいよいよ浮世離れした人間に見えた。 肌や機敏な動作は確かに若い男のそれだった。 だが、その瞳には100歳の老人だと言われても信じられるような深さがたたえられている。 数百年を生きた吸血鬼がこんな様子をしているのではないかと、瞬は思ったのである。 その吸血鬼が、全く落ち着いた声音で瞬たちに礼を言ってくる。 「ありがとう。いったい彼は何を急に怒り出したのか……」 「何をしたんだ」 「Tホテルに行く道を尋ねただけだったのだが」 国賓ホテルとして有名なホテルの名を聞いて、氷河は、原色男の憤りの訳がわかったような気がしたのである。 そのホテルは――昨今ではどんなホテルも建前上はそうだが――暴力団関係者の出入りを固く禁止していることで有名なホテルだった。 そして、それはここから歩いていける場所にはない。 そんなホテルへの道を訪ねられて、あの原色男はこの黒衣の男に馬鹿にされたと思ったに違いない。 そのあたりの事情に疎い瞬は、自然に小首をかしげることになった。 漆黒の男が、瞬のその様子を誤解したらしく、その表情を僅かに引き締める。 「ああ、失礼。名も名乗らずに。私は――」 名を名乗ろうとした彼は、なぜか一瞬そうすることをためらった――ように、瞬には見えた。 そのためらいを不自然に感じさせない程度の間のあとに、その名を名乗る。 「ハーデスといいます」 「ハーデス?」 いったいそれはどこの国の名なのかと、瞬は訝ったのである。 人の名として――それは聞き慣れないものだった。 |