「不吉に思われるかな。冥府の王の名です。本名ももちろんあるんだが、長ったらしくて欧州人にも発音もしにくい名なので、皆がその名で呼ぶ。いつも黒い服を身に着けているせいか、それが通り名になってしまった」 人に仇名を名乗るなど無礼千万だと、氷河は内心で彼の説明に舌打ちをしたのである。 そんなことをするくらいなら、どうせ互いに行きずりなのだから、名乗らない方がずっとましな対応だと、彼は思った。 そうこうしているうちに氷河の憤りに気付いた様子もない瞬が勝手に自己紹介を始め、氷河はそれにも舌打ちをすることになってしまったのである。 「僕、瞬といいます。こちらは氷河。こちらにはご旅行で? 日本語がお上手ですね」 ホテルをとっているのなら旅行者なのだろうが、彼の日本語はネイティブと言われても驚かないほど自然な発音とイントネーションで作られていた。 ぶっきらぼうに要点をしか口にしない氷河の方が、よほど日本語に不自由しているように、瞬には思えたのである。 瞬に褒められた黒衣の男が、意外や素直な微笑を浮かべる。 「通じているようで嬉しい。ありがとう。日本は初めてです」 瞬は、彼のその言葉に再度、今度は別の驚きを覚えたのである。 彼は確かに、日本人と同じ髪の色と瞳の色を持っていた。 それでも、金髪碧眼の氷河の方が はるかにこの国に溶け込んでいるように感じられる。 彼は、その雰囲気が――この国、この街というより、この世界に馴染んでいないように、瞬には見えたのである。 「僕たちも長く日本を離れていて、半月ほど前に帰ってきたばかりなんです。日本は6年振り」 「帰国子女というわけですか」 「そんなところです」 笑って頷いてから、瞬はなぜか自分が嘘をついているような後ろめたさを覚えた。 それは決して嘘ではなかったし、彼に本当のことを言う必要はないとも思ったのだが。 最近来日したばかりの旅行者ならギャラクシアン・ウォーズのことなど知らない可能性が高いし、瞬自身が、今はそのイベントに関することを忘れていたかった。 先日テレビでも放映もされたあの見世物のことは 人々の記憶にも新しいだろうが、聖衣を着けてさえいなければ、誰もそこにいるのが聖闘士だなどと気付くまい――氷河にそう言われて、瞬は彼とここにやってきた。 城戸邸の中に何をするでもなく閉じこもっているのは息苦しく、無為に過ごす時間は忘れたいことを思い起こさせずにはいない。 氷河が自分を外に連れ出そうとするのは、そんな仲間の気持ちを思い遣ってのことなのだろうと、瞬は思った。 だから瞬は、びくびくしながらも、彼と共に多くの人が行き交う場所に出てきたのである。 あの見世物は、結局中断されたままになっている。 そういう経緯での外出だったので、瞬は絶対に人目につくことはしたくなかった。 人混みの中に紛れ、その中に埋没する自分を感じたかっただけだった。 それがこういう仕儀に及んだのは、本当は不本意なことだったのである。 だが、こうしてハーデスと一緒にいると、確かに目立つことは目立つのだが、通行人の視線はハーデスの上に注がれ、その脇にいる瞬の上は素通りしていく。 その事実に、瞬は妙な安心感を覚えていたのである。 氷河も目立つ男だと思っていたが、黒衣の男の存在感は一種独特だった。 その氷河は、瞬とは対照的にひどく不機嫌そうだったが。 「やはり人混みの中は気分が悪くなる。帰ろう」 「氷河が付き合えって言い出したのに」 「俺には、気付いた間違いを正すことも許されないのか」 氷河の機嫌を損ねているものは、明白に、彼がチンピラの手から救い出した男の存在だった。 氷河は自身の不機嫌を隠す努力もせずに、瞬と言葉を交わしている旅行者を睨みつけている。 ハーデスは、だが、氷河のその態度に気を悪くした様子は見せなかった。 やわらかい声音で、瞬に尋ねてくる。 「何か急ぎの用があったのですか。お手間をとらせて申し訳ありませんでした」 「あ、いえ。僕たち、日本の空気に慣れようと思っただけで、特に用や目的があったわけでは――」 「だが、そちらの方には目的がおありのようだ」 「え?」 ハーデスの視線は氷河に向けられていた。 彼がなぜそう考えたのか、瞬にはその訳がわからなかった。 あの見世物とそれに続いて起きた出来事――瞬の兄の死。 氷河は沈んでいる仲間の気持ちを引き立たせるために、ただそれだけのために、瞬を閉塞された空間の外に連れ出してくれたのだ。 瞬はそう思っていた。 ハーデスは、実際、とんでもない勘違いをしてくれていた。 彼は微笑ましげに氷河と瞬とを見詰め、そして言った。 「理由は何でも、これほど可愛らしいお嬢さんと同行できること以上の目的などないでしょう」 ハーデスの誤解に気付いた瞬は、慌てて訂正を入れたのである。 「それは誤解です。僕は男ですし」 「――そうですか?」 困惑を含んだ瞬のごまかし笑いを見ながら、ハーデスが疑わしげに呟く。 瞬が男だということではなく、氷河の目的が瞬とのデートでないことの方を、彼は信じかねているようだった。 瞬は苦笑するしかなかったのである。 氷河の目的――がそんなものであったなら、ただ一人の兄を失って沈んでいる仲間の気持ちを慰めることでなかったなら、今 自分の心はどれほど弾んでいたことだろう。 もしそうだったなら、もう二度と会えないかもしれないという覚悟と共に別れた幼馴染みと、6年間のつらい日々を笑顔で語り合うこともできていたに違いないのだ。 |