ハーデスの言を聞いた瞬の瞳が曇ったことが、氷河の機嫌を更に悪化させてしまったらしい。
「日本は治安のよい国と聞いていたのですが」
「貴様が世間知らずで馬鹿なだけだ」
ハーデスに対する氷河の態度は、いよいよ刺々しいものになっていった。

「氷河!」
瞬がたしなめても、彼は自分の態度を改めようとはしなかった。
「あんな、いかにも堅気でない野郎をつかまえて道を訊くなんてことは、常識人ならまずしない。しかも尋ねたのは、あの手の男は絶対に入れないホテルへの道。あの男が貴様に愚弄されたのだと思っても仕方がないだろう」
氷河の挑戦的な口調に驚いたらしいハーデスが軽く瞳を見開く様を見て、瞬は大いに慌てた。
険悪な空気を払いのけるために、不自然なほど唐突に その場の話題を変える。

「えと、行こうとなさっていたのはTホテルなんですね」
肩からさげていたショルダーポーチから おのぼりさん丸出しで都内案内図を取り出し、ハーデスの前に突き出すようにして、瞬は路線図のページを開き示した。
「ここからこの道をまっすぐ100メートルほど行ったところにJRの駅がありますから、そこから3つ目の駅で地下鉄に乗り換えて、5つ目の駅で降りるのがいちばん近いと――」
「持ち合わせがあるのならタクシーで行け」
瞬の気遣いを無にするような言葉を、氷河が情け容赦なく吐き出す。
「それは思いつかなかった」
ハーデスは、氷河の提案に感心したように言って笑った。
ともかくハーデスは氷河の無愛想に気を悪くしてはいないらしい。
瞬は、緊張させていた肩から力を抜いて、ほっと安堵の息を洩らしたのである。

「お礼に食事でも」
というハーデスの誘いを丁重に断って、氷河と瞬はその場で彼と別れた。
異国からやってきた異邦人と、故国に帰ってきたばかりの異邦人の奇妙な出会い。
それは、その時限りの、最初で最後の出会いで終わるはずだった。






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