「聖闘士?」 ハーデスが、初めてその落ち着いた声音を乱す。 黒髪のセクレタリーが彼女のボスに何を耳打ちしたのかは、ハーデスが洩らした言葉で瞬にも容易に知れた。 死神か吸血鬼かと思っていた人物が善良な一市民で、彼の正体を謎のように感じていた自分の方が実は普通の人間でないという事実に、その時 瞬はやっと気付いたのである。 きまりの悪い思いに支配されかけた瞬に、だがハーデスは異質のものを見るような視線は向けてこなかった。 「ああ、失礼」 彼はむしろ感心したように、その目許に微笑を刻むことさえした。 「こちらに来て、映像を拝見しました。あの闖入者からは無事にマスクを取り戻せたそうですね」 兄のことに言及された瞬の胸が、鋭い針で刺されたような痛みを覚える。 ハーデスは、瞬のその一瞬だけの緊張に気付いた様子もなく、意識して作っているにしては自然すぎるほどに穏やかな声で、瞬に問いかけてきた。 「その細い指で、岩をも砕けるわけですか」 「ええ」 善良な一市民に偏見で見られることを覚悟して、瞬は彼に頷いた。 が、ハーデスはその声だけでなく、瞬に向ける眼差しの様子も変えることはしなかった。 それはしなかったが、彼は、彼の変わらない眼差しを客間の壁際に不機嫌そうに立っている氷河の上に巡らせ、 「そちらの方の金髪は、戦いの場ではさぞかし映えるでしょうが、瞬には戦いは似合わない」 と、言うことはした。 「何が言いたい」 氷河が目を 「瞬を私のボディガードとしてスカウトしたいと思って。瞬は、君とは違う。もっと平和的な場所にいるべきだ。戦うことが務めであるような場所ではなく」 「たわ言を」 「私は真面目だ」 ハーデスは真面目なのかもしれなかったが、そのあまりに突飛な発想は、瞬にもやはり ただの戯れ言としか思えなかったのである。 しかしハーデス自身は冗談を言っているつもりは全くないらしく、彼は言葉通りに真面目な表情を瞬に向けてきた。 「戦場というものは、一度その中に身を投じたら永遠に抜け出すことのできない場所だ。そこで行なわれる戦いがどういうものであれ、瞬のような少年が生きる場所ではない」 『瞬のような』――と、いったいいつ何を根拠に彼は判断したのかと、氷河はハーデスを問い詰めてやろうかと思った。 もし彼が、瞬の外見の印象だけで そう判断したのなら、彼は瞬の強さを見くびっている。 だが同時に、もし彼が瞬の外見の印象だけでそう判断したのだとしても、それは確かに正しい判断だった。 瞬は戦いを好む だから、氷河は彼に反駁するのをやめたのである――反駁できなかった。 「私の住む街は首都から離れたのどかで美しいところです。住んでいる人間の心も素朴で優しい。心身の療養を兼ねて、私と共にドイツにいらっしゃい」 「僕は……」 本気で言っているにしても唐突すぎる。 瞬は彼の申し出を断ろうとした。 その断りの言葉が、 「――兄君を失った心を癒すためにも、この国を離れた方がいいのでは」 というハーデスの声によって遮られる。 瞬はびくりと身体を震わせた。 なぜ彼がそんなことまでを知っているのかという疑念より、つらさの方が先立つ。 ハーデスのその言葉は、取り戻すことができないのなら忘れてしまいたいと思っていたことを、瞬に思い出させた。 「瞬は行かない!」 ハーデスと瞬の間に、ふいに鋭い氷河の声が割り込んでくる。 それから氷河は、命じているのか懇願しているのかの判別に悩むような声と眼差しを 瞬に向けてきた。 「行かないな? 瞬」 「うん……」 瞬は氷河に頷かないわけにはいかなかったのである。 ただひとりの肉親を失ったことは故国から逃げ出さずにいられないほどつらい喪失ではないと、瞬は氷河に示してみせなければならなかった。 「瞬の勧誘は、あとで個別になさってください。私は瞬の意思を尊重しますから。今はお仕事の話を。私はあまり時間がとれないのです」 見兼ねた沙織が――だが、誰を?――その場に別の話を持ち出してくる。 ハーデスは、その場ではそれ以上言葉を重ねることはしなかった。 |