彼が城戸邸に、瞬ではなく氷河を訪ねてやってきたのは、彼等が出会って半月が過ぎた ある日のことだった。
彼はその日も死神のように黒一色のいでたちで、獲物を罠の中に追い込んだことを確信した猟師のように悠然としていた。

なぜ瞬ではなく自分なのかと訝る氷河が客間のソファに腰をおろすと、彼は「こんにちは」という馬鹿げた挨拶を口にして、早速氷河の神経を逆撫でしてくれたのである。
氷河が無言でいることを無視して、彼はにこやかに微笑み、彼の用件に入った。

「瞬に君のことを聞いた」
『いったい何のために』と不審に思う気持ちと、『聞いた』のではなく『聞き出した』のだろうという憤りが、同時に氷河の胸中に湧いてくる。
不機嫌を隠す気のない氷河の態度が見えていないわけではないのだろうに、彼はどこまでもその現実を無視し続けた。
「瞬の兄君が亡くなったことの責任の一端は君にあるとか。君たちが側にいるのは、互いに不幸なことなのではないか」
「なに?」

――この男の目的はいったい何なのか。
何のために、この男は突然そんなことを言い出したのか。
それは氷河にはわからなかった。
彼の目的と行動が 自分の利害と一致しないだろうことだけが、今の氷河にわかる唯一のことだった。

「君を見るたび、瞬は兄君の死を思い出すだろう」
彼の目的の内容以前に、彼の言葉が告げる事実――おそらく――が、氷河の身体を強張らせる。
それは、瞬に確かめることはできない、だが、当然推察される事実だった。
氷河は、瞬の兄と拳を交えたことを後悔はしていなかった。
瞬の兄を倒したことも後悔していなかった。
ただ結果として瞬を悲しませることになった現実に、苦痛を覚えているだけだった。

「瞬は……」
瞬は、あの闘いのあと、彼の仲間たちに、これからは兄のために兄の分も闘うと言った。
兄の死から完全に立ち直ったわけではないだろうが、一人で歩き出そうと決意するところにまでは至れているはずだった。
そして瞬は、氷河を責めたりはしなかった。

「無論、瞬は君を責めたりはしない。だが、君はどうだ? 何やら複雑な事情があったらしいし、城戸沙織嬢も他の仲間たちも 君のとった行動をやむを得ないことと認めているようだが、君自身は皆が認める大義名分のためにそうしたと言い切れるのか? 邪魔者を葬り去りたいという心が、本当に君の中にはなかったと言い切れるのか?」
「……!」
いったいこの男は何者なのか。
その目的などよりも先に、自分はそれを考えるべきなのではないかと、氷河は思ったのである。
瞬でさえ知らないことを、この男が瞬から聞き出せるはずがない。
だというのに、氷河の心はこの男に――知り合って間もない異邦人に――見透かされていた。

瞬の兄が帰ってこなければいいと思っていたこと。
彼の生還に舌打ちをしたこと、彼が敵として――倒すべき者として自分の前に現れたことに歓喜した一瞬。
彼はすべてを知っているようだった。
氷河の内心の混乱に気付いているのかいないのか――気付いていないはずがない――彼は、にこやかに彼の言葉を続けた。
「君も、瞬といると自身の醜さを思い知らされて つらいだけだと思うのだが」
だから、どうしろというのか。
見事なほどにあからさまな おためごかしを言ってくる黒衣の男を、氷河はきつく睨みつけた。
その目的を、その正体を、氷河が彼に問い詰めようとした時、ふいに瞬が客間に飛び込んでくる。

「ハーデス! 今日はビルのオーナーさんと大事な契約を結ぶ予定だったんじゃないの?」
仲間たちに対するのと変わらない笑顔を、瞬がハーデスに向ける。
幼い頃に共に過ごした日々と、共に過ごすことのできなかった6年のつらい日々。
それらを共有している仲間と、つい半月前に知り合ったばかりの異国人が同等なのかと、氷河は瞬を責めたくなった。

「思ったより簡単に契約が済んでしまったのでね。瞬の顔が見たくて来てしまった」
ハーデスの言葉を受けて、瞬が嬉しそうに微笑む。
なぜ瞬が、これほど短期間のうちに、こんな得体の知れない男に懐いてしまったのか、氷河にはどうしても納得ができなかった。
6年振りに出会った瞬は、幼い時を共に過ごした仲間たちに対してさえ、しばらく人見知りめいた距離を置いていたというのに。

氷河自身にも――自分がなぜそんなことをしたのか わからなかった。
掛けていたソファから立ち上がり、ドアの前から来客の側に歩み寄りかけていた瞬の前に立ちふさがると、その両腕を掴みあげて、氷河は瞬の唇を自分のそれでふさいだ。
氷河のキスは、だが、瞬を驚かせることしかできなかったらしい。
瞬はしばらく自分の身に何が起こっているのかを理解できずにいるように、氷河に為されるがままでいた。
やがて我にかえり、氷河の腕を振りほどいて一歩うしろに後ずさる。

「氷河……?」
瞬が見開いた瞳を氷河に向けると、そこには何かに激しく憤っているような氷河の目があって、それはまっすぐに瞬の上に向けられていた。
氷河の怒りの訳がわからず――あるいは考えたくなくて、瞬は救いを求めるように、視線をハーデスの方へと巡らせたのである。
ハーデスはこの出来事に驚いた様子は見せず、そしてソファに座っていた姿勢を変えることもなく、それが二人への思い遣りであるとでもいうかのように、静かに両の目を閉じた。






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