何も――不埒な行動に出た男を責める言葉さえ口にせず目を伏せてしまった瞬に苛立ったように、氷河は部屋から出ていってしまった。
ドアが閉じられる音を確認して初めて、瞬が顔をあげる。
無論、そこに氷河の姿はない。
瞬は泣きたい気持ちを無理に振り払って、ハーデスを振り返った。

「す……すみません。変なとこ見せてしまって」
「彼は君に恋をしているのかな」
「まさか」
ありえないことを言うハーデスに、瞬は、全く感情の伴っていない笑みのようなもの――を向けた。
ハーデスの推察を否定する根拠も肯定する根拠も持っていない自分に気付いて、そのまま黙り込む。
氷河の唇が触れていた場所に恐る恐る指をのばし、そこにまだ氷河の熱が残っているような気がして、瞬は慌ててその指を離した。

「僕……最近、氷河が何を考えているのかわからないんです。これまではずっと、兄のしたことを気にしていないって示すために、僕に優しくしてくれているんだと思っていたんですが」
「優しく?」
ハーデスがなぜそんなことを聞き返してくるのかと訝りつつ、瞬は彼に頷いた。
「ええ、氷河は優しいんです。ちょっとぶっきらぼうなとこはあるけど」
ソファに腰をおろしたままのハーデスが、ゆっくりと顎を引く。
そして彼は、まるでこの世界で起きていることのすべてを知っているような口調で、低く呟いた。
「優しい……確かにそれはそうだろう」
「え?」
何が“そう”なのかと尋ねる代わりに、瞬は彼を見詰めた。
ハーデスが、傷付いた哀れな子供を慰撫するような眼差しを瞬に返してくる。

「彼は君の兄君の死に責任があると聞いた。彼はその罪を償うために、自分の手で君を幸せにしたいと考えているのではないかな。だとしたら――彼も重い荷を背負ったものだ」
「……」
ハーデスの言うようなことを、瞬はこれまで考えたことがなかった。
思い至っていなかった自分に苦いものを感じて、瞬は俯いた。

氷河の瞳の中にあるものを、自分への恋だとうぬぼれたことはなかった。
それは、似たような境遇にある幼馴染みに対する親しみかもしれないし、同じ時間 同じつらさに耐えて今ここに共に在る者への親近感かもしれない。
唯一の近親を失ったばかりの仲間に、母を失った時の彼自身を重ねて、その心を気遣ってくれているのかもしれないと思うこともあった。
氷河のそれがどういうものであったにしても、彼が何らかの思いを抱いて いつも自分を見ていてくれることを、瞬は知っていた。
彼の眼差しを、ありとあらゆる思いの入り混じった思い遣りなのだと思っていた。

ただ、その“思い”の中に贖罪の念が含まれていることだけは、瞬は考えたことがなかったのである。
自分は氷河に嫌われていない――もしかしたら好かれている。
氷河に拒まれていない――もしかしたら求められている。
彼の瞳の中にあるものを、瞬はそう解釈していた。

だが――氷河の内にあるものが、瞬から兄を奪ったことの贖罪を願う気持ちだというのなら、氷河の優しさがそういうものでできているのだとしたら、瞬はもう彼に甘えることはできなかった。
彼に見詰められていることを心地良いと感じていた自分を、いたたまれないほどの苦しさと共に、瞬は深く恥じたのである。


その時から、瞬は意識的に氷河を避けるようになった。
そうすることが、他でもない氷河のためなのだと自分に言い聞かせて。
日に日に元気がなくなっていく瞬を心配した星矢たちは、折々に気遣いの言葉をかけてくれたが、氷河だけは何も言ってくれない。
瞬は、ハーデスの推察が正しかったのだと思うしかなかった。






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