「いいのか、氷河。瞬を行かせて」
寝耳に水の事後報告に驚いて口を挟めずにいた紫龍が、初めて口を開く。
氷河は頷く気力も失せたような顔で、それまで瞬が立っていた場所をただ見詰めていた。
「俺が幸せになるのに瞬が必要だった。俺のために瞬を引き止めることはできない。あの男と違って、俺は瞬にしてやれることはないし――」

「なにメロドラマみたいなこと言ってんだよ! おまえ、ガキの頃からいつも、瞬と一緒にいる一輝を羨ましそうに見てただろ。クールぶるな。おまえは女々しい男なんだ。それを認めて、瞬を引き止めろって!」
紫龍に一瞬遅れて我にかえった星矢が、じめついた空気の充満している部屋に大声を響かせる。
星矢は単純に――そして素直に――瞬が瞬の仲間から離れていく不自然に憤りを覚えていた。

星矢は、ハーデスをどこか不思議な魅力の持ち主だと認めていた。
瞬が彼に惹かれることも、無理に納得しようと思えば そうできないこともない。
だが星矢は、どうしても彼を心から好きになることができなかったのである。
敵ではなく、悪意も害意も抱いていないであろう人間を、星矢がそんなふうに思うことは滅多にないことだった。

「君たちが瞬の身を案ずるのは当然のことだが、心配は無用だ。瞬は私が責任をもって預かる。最高の教育と不安のない生活と、何より平穏な日々を保証しよう」
瞬の仲間たちに別れの挨拶を――などという殊勝なことを考えたのかどうかは知らないが、星矢の怒声に氷河が反応する前に、瞬を仲間たちから引き離そうとしている当の本人が その場に姿を現した。
瞬が、その影に隠れるようにしてハーデスの横に立っている。

「もし気掛かりなら、時々瞬に会いに来てくれればいい。私は瞬を永遠に私の許に引き止めておくつもりはないし、何年か経って瞬と君の間の負い目や依存の気持ちが消えた頃に、もう一度行動を共にするのは結構なことだと思う」
激している星矢にではなく氷河に、ハーデスは穏やかな声で、いかにも物のわかった大人の言葉を投げてくる。

「僕、氷河に甘えてたと思う。ごめんね。僕は……いつも誰かに頼って寄りかかってばかりだった。最初は兄さん、次は氷河。でも僕は今度こそ ひとりで立っていられる人間になりたいんだ。これまで……本当にごめんなさい」
ハーデスには無言無反応を示すことができた氷河が、瞬の言葉には僅かに眉根を寄せ、つらそうな表情になった。






【next】