冥界での戦い後、アテナの聖闘士たちは久し振りの平和な日々を謳歌していた。 つらい戦いの時は過ぎ、人間たちが生き暮らす地上には、昨年と同じように花の咲き乱れる春が近付いている。 長い戦いの末に、今度こそ本当に訪れた平和の時。 昨日と何も変わらない今日、今日と何も変わらない明日――その価値が身にしみてわかるだけに、アテナの聖闘士たちは、平和の時の一瞬一瞬を慈しむように生きていた。 ――が。 戦時には戦いそのものがトラブルで、戦士たちは巨大で茫漠としたトラブルの中にいるようなものであるが、平時のトラブルは目に見える形を持って突然向こうから出向いてくる。 平和を謳歌するアテナの聖闘士たちの許に、ある日突然、それはやってきた。 「おい、ここにアテナの聖闘士のアンドロメダ座の瞬というガキがいると聞いてきたんだが」 そう言って城戸邸にやってきた一人の貧相な風体の男が、アテナの聖闘士たちの今日を、昨日と違うものにすることになったのである。 「何者だ、おまえは? 瞬に何の用だ」 横柄な口を叩くわりに、男は、まるで指名手配中の犯罪者か何かのように不自然に顔を伏せている。 どこから誰がどう見ても、彼は不審人物だった。 「怪しい奴だな」 城戸邸の正面玄関で彼を最初に出迎えたのは、星矢だった。 ここまであからさまに、見るからに怪しい人物。 その上、尋ねられても名も名乗らず、名刺の一枚も差し出さない。 身に着けている背広は、いかにも着古しで ひどくくたびれていた。 こんな不審な男に、守衛はなぜ門を開き 邸内に入ることを許可したのだろう? もしかしたら正規の手続きを踏まず、守衛の目を盗んで忍び込んできたのかもしれない。 訝った星矢は、その男の側にずかずかと歩み寄り、男の顎の下に拳を突きつけることで、彼が必死に隠そうとしているものを上向けた。 男は顎に力を入れ懸命に抵抗していたが、相手はなにしろアテナの聖闘士。それもアテナの血を受けて神聖衣なるものを身に着けることさえ可能にした超人類である。 男の抵抗は空しく、彼の顔は、日中も消されることのないエントランスの照明の下にさらされた。 さらされはしたのだが、残念ながら それは星矢には全く見覚えのない顔だったのである。 男は、歳の頃は30代後半。もしかすると40を過ぎているかもしれない。 いかにも雑魚キャラと言わんばかりに、雑な造りの顔をしていた。 わざとらしく伏せられているその顔を見れば男の正体はわかるに違いない――という当てが外れた星矢が、不満そうに口をとがらせる。 隠す必要の無いものを意味ありげに隠す男の思わせぶりにムカつきつつ、星矢は再度彼に誰何した。 「ほんとに誰だよ、おまえ」 が、その場で よりムカついていたのは、星矢よりも正体不明の訪問者の方だったらしい。 彼は開き直ったように肩肘を張り、耳障りな大声をエントランスホールに響かせた。 「このくそガキ、地獄の渡し守・天間星アケローンのカロン様の顔を見忘れたか!」 「カロン?」 星矢もさすがに その名だけは憶えていた。 彼がもし冥闘衣を身に着けオールの1本も手にしていてくれたなら、星矢とて、一目で彼を彼と認識できていたに違いない。 しかし、今 星矢の目の前に立つ中年の男は、アイロンをかけたのはいったい何年前かと思うような皺くちゃの背広を着ていて、冥界の入口でアテナの聖闘士たちをいたぶってくれた男の面影を、その上に重ねることは到底不可能な様子をしていたのだ。 「そのカロン様が、なんでこんなところにいるんだよ」 まるで事情がわからずに、星矢はカロン様に尋ねた。 途端に現在の自分の立場を思い出したらしいカロンの腰が低くなる。――姿勢だけは、確かに彼はへりくだってみせた。 「いやー、実はな、冥界があんなことになって、俺様は失職したんだ。だもんで、俺様は今、再就職先を探している。聞くところによると、アテナはグラード財団の総帥だそうじゃないか。昔のよしみで、勤め口の一つ二つ紹介してもらえないかと思って、わざわざここまで足を運んできたわけよ。光栄に思え、このくそガキ」 昔のよしみとは、彼がアケローン河に浮かんだ舟の上で、亡者が蠢いている冥界の河にアテナの聖闘士を突き落としてくれたことなのだろうか。 それを『よしみ』と言ってのける男に呆れ、更に、人にものを頼んでいるとも思えないカロンの言葉使いに呆れ――あまりに呆れすぎて、星矢は、自分の内に怒りの感情を生むことができなかったのである。 僅かに同情の念を抱くことさえして、星矢はつい最近までアテナの敵であった男に、気の抜けた声でぼやいた。 「地獄の渡し守も墜ちたもんだな。まあ、口をきいてやらないこともないけど」 「貴様なんぞに用はない。アンドロメダを出せ!」 星矢のその態度が気に入らなかったのか、カロンの口調が再び居丈高になる。 「瞬……?」 なぜここで瞬の名が出てくるのか――を、星矢は訝った。 職を探しているというのなら、今カロンが必要としているのはグラード財団総帥の力だろう。 ひいては沙織に渡りをつけことができる何者かであって、それは瞬でなくてもいいはずだった。 実際、たった今 星矢自身が、『口をきいてやらないこともない』とカロンに言ったばかりではないか。 だというのに、カロンはあえて瞬を指名してくる。 それは、カロンの目的が実は職探しなどではないからなのではないか――と、星矢は考えたのである。 瞬がハーデスの依り代に選ばれたこと、それが結果的にハーデスの地上滅亡計画を妨げたことは、いくら冥界の果てのアケローン河近辺在住者とはいえ、カロンの耳にも届いたに違いない。 彼が瞬を逆恨みしても仕方がない――逆恨みを『仕方がない』と許容してしまうことは大いなる間違いではあるが、彼が恨みをぶつけることのできる相手は瞬しかいない――のが現状なのだ。 「瞬に責任を押しつける気かよ! 冥界が崩壊したのは瞬のせいなんかじゃねーし、貴様が失業したのも、瞬のせいじゃないぞ!」 目一杯の怒声を、星矢は城戸邸のエントランスホールに響かせた。 アテナの聖闘士でありながら、アテナに敵対する神に その依り代として選ばれ、自ら地上を滅ぼそうとする計画に加担してしまったことには、瞬とて尋常でなく傷付き、また深く責任を感じているのだ。 この上、冥界の失業者の面倒まで強要されたら、瞬は踏んだり蹴ったりではないか。 星矢のその大声に驚いたのは、だが、カロンではない別の人物だった。 |