「ま、こういうことだ」 再び瞬の姿の見えなくなった客間。 呆然としているカロンに向かって、氷河は言った。 「瞳の清濁なんてものは、対象物に向かう人間の心次第でどうとでも変わるものだ。驕った気持ちで貴様を見る俺だって、瞬を見る時には清廉潔白の士になる。そして、俺に対する瞬の心もまた澄んで清らかだから、瞬はそれを感じ取ることができるわけだな」 人間が人間の瞳を覗き込む時、見る者は見る者であると同時に見られる者で、見られる者は同時に見る者でもある。 その両者が清浄な心を抱いていなければ、その瞳の内にある清澄は誰にも認知されることはないのだ。 「貴様が、瞬の目は澄んで清らかだと思うのなら、俺には信じ難いことだが、瞬の目を見る貴様の心の中にも澄んで清らかな部分があるんだろう――おい、聞いているのか、この野郎!」 氷河の言葉を、もちろんカロンは聞いていなかった。 今の彼にそんな余裕があったろうか。 今の彼は、彼の辞書の1ページ目に突然『恋』という字が極太極大フォントで現れたことに混乱しまくっている、恋に不慣れな哀れな男にすぎなかった。 「恋……俺様が、あんなガキに惚れているというのか……。そんな馬鹿なことがあるか……!」 神であるハーデスが その依り代として選んだほどの特別な人間――そう思えばこそ、カロンは、自分の中にある瞬への奇妙な思いを受け入れることができていたのである。 瞬は特別な人間、尋常ではない何かを持った存在なのだと思えばこそ。 それが あろうことか、恋などという俗っぽい感情の力によるものだったとは――。 カロンは、これまでの人生の中で初めて、自分自身を理解できないというトラブルに見舞われていた。 珍しく好意的な発言をものの見事にカロンに無視されて、氷河が機嫌を損ねる。 考えてみれば、自分には恋敵に対して塩を送る義理はないのだと思い直し、氷河はその瞳に驕慢の色を取り戻した。 「同性愛にエフェボフィリア。貴様は正真正銘の変態だな」 自分のことを棚にあげ、氷河は断言した。 どういう訳か、カロンの耳には、氷河の悪意ある言葉だけは明瞭に聞こえるらしい。 人間の目が見たいものだけを見たいように見、人間の耳が聞きたい言葉だけを――たとえ、それが自分に対して悪意の込められた言葉であっても――聞きたいように聞いているのは、まぎれもない事実である。 その結果として、カロンは、彼が以前働いていた地獄の底よりも深いところまで、ずどんと急降下で落ち込んでしまったのだった。 「カロンはどうしたの?」 「アールグレイはロシアンティには向いていないからな」 両の肩をがっくりと落として城戸邸を出ていくカロンの後ろ姿を心配顔で見詰める瞬に、もちろん氷河は事実を伝えることはしなかった。 |