雨露をしのぐことのできる家、栄養を考慮された3度3度の食事、清潔な衣類――と、あえて仕事を求めなくても生命の維持には不安のない生活。
それだけのものが揃っていれば、人は幸せになれるものだろうか。
城戸邸でそれらのものを無償で提供されることになったカロンは、だが、決して幸福ではなかった。
長年勤めていた職を失い、安穏な生活の代償として自立と誇りを奪われ、彼が得ることができたものは変態のレッテルのみ。
今の彼には、人が生きていくのに最も必要なもの――希望――がなかったのだ。

生活の不安がなくなったというのに消沈し覇気を失っている かつての敵に、氷河は決して同情したわけではなかった。
ただ彼は、瞬が 気落ちしているカロンを心配そうな目で見詰め続けることが、とにかく気に入らなかったのである。
氷河がそういう行動に出たことに、他の理由はない。

カロンが城戸邸で起居するようになって1週間後のある日の午後。
城戸邸の裏庭にあるベンチに腰をおろし、まだ僅かに冬の気配の残る庭を無気力に眺めているカロンの前に、そんな彼を見下ろすようにして氷河は立った。
隣りに瞬を伴って。
昼間からたそがれていたカロンがゆっくりと顔をあげるのを確かめると、彼を無視して瞬に向き直る。
それから氷河は、瞬の腰に腕をまわし、その身体を引き寄せて、
「瞬、愛してるぞ」
と、瞬に告げた。――カロンに聞こえるように。

「え?」
突然人前でそんなことを言われて瞳を見開いた瞬に 何の説明もせず、その身体を抱きしめてキスをする。
氷河の唐突な行動に 瞬が戸惑っていたのは、ごく短い時間だった。
瞬の腕が氷河の背にまわり、しがみついていく。
二人が、どう見ても舌の絡み合うキスを交し合っていることに気付いたカロンは、驚愕のあまり、背中からベンチの後ろに転がり落ちた。

「なななな何なんだ、おまえたちはーっっ !! 」
これまで仕事一筋に生きてきた清らかな中年男に、アテナの聖闘士たちの濃厚なキスシーンは過激に過ぎた。
あたあたと慌て取り乱しながらベンチにすがりついたカロンに、瞬の唇を解放した氷河が明瞭な声で言う。
「俺と瞬はこういう関係だ。それを肝に命じろ」
「こここここーゆー関係って、きききき貴様等、なんてふしだらなっ!」

カロンは、アテナの聖闘士たちの乱行に立腹こそすれ、かけらほどにも落胆した様子は見せなかった。
星矢の推察通り、確かにカロンが瞬に対して抱いている気持ちは、恋に似て非なるもの、それは決して恋ではないのだろう。
たとえ恋であったにしても、そのレベルは幼稚園児並みに、あるいは聖女を崇める騎士のように、プラトニックなのだ。
それさえ確かめられれば、氷河はもはや彼に対する敵意を感じることはなかった。

「それを忘れなければ――俺が貴様にいい仕事を世話してやる」
「いい仕事?」
カロンは、まさかこれが氷河の面接試験だとは思ってもいなかった。
しかし、それは、確かにカロンの就職のための面接だったのだ。
反問してきたカロンにゆっくりと頷き、氷河が彼に業務内容の説明を始める。

「勤務地は、この城戸邸。仕事内容は、いわゆる邸内の庭のメンテナンスで、花壇の世話から、樹木の枝落としや冬囲いの作業、秋には落ち葉の始末もある。城戸邸の庭はちんけな公園より広いから、仕事は結構きつい。資格・経験は不問。休日は週休2日だが、場合によっては休日出勤あり。基本給30万、年次有給休暇は20日、昇給年1回、賞与年2回、各種社会保険完備、退職金制度あり。交通費は全額支給だが、裏庭に東屋があるから、そこで住み込みも可。特別サービスで、瞬が頼む雑用を片付けることも許してやろう。どうだ、やる気はあるか」

「キグナス……」
ふしだらで驕慢な男が提示してきたものとはいえ、それはカロンにとっては願ってもない好条件の仕事だった。
毎日瞬を見ていることができ、しかも、敵の情けで命を繋ぐのではなく、労働することで当然の権利としてその報酬を受けることができるのだ。
これ以上幸福な就職があるだろうか。

「やるぜっ! 俺はやるっ!」
若い者たちのふしだらを忘れ、カロンは二つ返事でその仕事を引き受けたのだった。






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