ラウンジに戻った瞬は、内心の混乱を静めることができないまま、庭に面した場所に置かれていた籐椅子に身体を預けた。 ここからは氷河のいる場所は見えない。 星矢と紫龍は春の陽気に浮かれて外出したのか、邸内から二人の気配は消えていた。 どこからか歌を歌うように楽しげな鳥の鳴き声が聞こえてくる他には、庭からの微風すら音を立てずに静寂を守っている。 長い冬のあとにやってきた暖かく静かで穏やかな春の日の午後。 しかし、瞬は言いようのない不安にかられていた。 「瞬」 ふいに氷河の声が瞬の名を呼ぶ。 瞬は、だが、彼に答えもしなかったし、声のした方を見やることもしなかった――恐くてできなかった。 瞬にできることはただ、身体を強張らせ、唇を噛みしめることだけだった。 そんな瞬の両肩に氷河の左右の手が置かれ、そのまま滑るように下りてきて、瞬の胸の上で指先が絡み合う。 瞬が何の反応も示せずにいるうちに、氷河の唇が瞬の耳に触れ、その唇が再度 瞬の名を、今度は低く囁いた。 「瞬……」 振り返って氷河の表情を確かめたいのだが、恐くてできない。 瞬はありったけの勇気を奮い起こし、彼に尋ねた。顔を深く俯かせて。 「氷河、夕べ何があったか憶えてる?」 「忘れるわけがない。俺のこれまでの人生で最良の日だった」 「憶えてるのに……どうしてあんな素っ気ない態度とるの」 自分を混乱させていたその問いを言葉にした途端、瞬は瞳の奥に尋常でない痛みを覚えた。 そこで、熱を持った涙が生まれかけている。 瞬がそこまで心身を切なさに覆い尽くされているというのに、返ってきた氷河の口調はありえないほど軽やかなものだった。 「さっきのことか? ちょっといじめてみたくなっただけだ。夕べ、おまえの泣く顔がとても可愛いことを発見したから……もう一度見たくなった」 「そんな……!」 安堵の思いより先に、涙の方が瞬の感情を支配する。 氷河のために――二人のために――瞬は昨夜、それまでに自らが培ってきた 生きる上での制約をすべて振り払うことをした。 それが正しいことだったのか、二人にとって良いことだったのか、瞬は未だに確固たる答えに行き着くことができずにいた。 それでなくても不安に捕らわれ 迷い戸惑っているこの時に、そんな悪ふざけをしなくてもいいではないかと、瞬は氷河を責めたくなったのである。 が、瞬は氷河に恨み言を言うことはできなかった。 氷河の唇と腕が、瞬に、春の微風のような愛撫を加えてくる。 頬に氷河の唇の熱を感じた途端、瞬は氷河を許してしまっていた。 「氷河は、夕べのこと、なかったことにしたくなったのかと思った……」 瞬は許さずにはいられなかったのだ。 それでも、涙は瞬の瞳を覆ってしまったが。 「そんなことがあるはずがないだろう。俺は今夜から毎日を人生最良の日にするつもりでいるのに」 やっと瞬の正面に場所を移動した氷河が、かがみ込むようにして、瞬の顔を覗き込んでくる。 その瞳は確かに、昨夜 瞬を春に例えて抱きしめた人間のそれだった。 彼の胸の下で 昨夜自分が何をし何をされたのかを思い出し、瞬はふいに身の内に羞恥の感情が湧いてくるのを感じた。 頬を染め、視線を氷河の上から少しだけ横に逸らす。 そして、それでも瞬の不安は完全には消え去らなかった。 |