「でも星矢が……」 「星矢が?」 「氷河があのロザリオを捨てようとしてたって、言ってた……」 「それがどうかしたのか?」 全く深刻さの感じられない氷河の返答は、尋常でなく瞬を驚かせた。 昨夜 氷河の前に自分のすべてをさらけ出したことを恥ずかしく思う気持ちをすら忘れるほどに、瞬は彼のその言葉に驚いた。 何より、氷河が星矢の言を否定しないことが、瞬の不安を更に大きなものにした。 もしかしたら、氷河がそれを捨てようとしたのは自分のせいなのではないかという、恐怖に似た気持ちが、瞬を襲ってくる。 「ゆ……夕べ僕たちがしたことって、神様の教えに背くことでしょう? 僕のせいで氷河がもし――」 神を捨てようとしたのだったなら、自分はどうしたらいいのか――。 恐ろしくて、瞬は、最後まで自分の疑念を言葉にしてしまうことができなかった。 だが、瞬がもしその言葉を最後まで言おうとしたとしても、氷河はそれを途中で遮っていただろう。 「神は人間に『汝の隣人を愛せ』と言った。人間が愛し合うこと以外に神の望むことはない」 きっぱりと、氷河は断言した。 だが、そうなのだとしたら、彼が神への信仰をかたどったものを捨てようとしたのは なぜだったのか。 彼の言葉は自分のための嘘なのだと感じて、瞬は不安な睫毛を伏せたのである。 神はなぜ それを禁じ、あまつさえ罪としたのか。 昨夜 瞬が初めて体験した氷河との交合は、瞬にとってはひどく心地良く安心でき幸福になれる行為だった。 本当に、瞬はこれまで経験したことがないほどに深く 幸福感に陶酔した。 それを人に禁じる神は、もしかしたら、人が幸福になることを望んでいないのではないかとすら思う。 神は、人と人が愛し合い幸福になることよりも、神を畏れ罪におののき、臆病に生きることを第一に望んでいるのではないだろうか、と。 「もし俺が神の意思を間違えて捉えているのだとして――」 瞬の頬に手の平を当てて、氷河が尋ねてくる。 「俺のために神に背くのは嫌か」 氷河の手は、恋のためにすべてを捨てろと瞬に命じるように熱かった。 「僕は……」 その手の熱さが、瞬に考えることをさせない。 瞬は世界を拒否するように固く目を閉じ――氷河の手の感触だけを自分の世界のすべてにして、半ば喘ぐように彼に答えた。 「僕は、氷河のためになら どんなことでもできてしまいそうな気がする……」 否、実際にしたのだ。 自身を覆い隠しているものをすべて取り払い、人がその身体で作る快楽というものを瞬は氷河に与え尽くし、また氷河から受け取った。 身体と五感を溶け合わせ、何もかもを忘れる一瞬を共有した。 その一瞬のためになら何を捨てても惜しくないと思えるほど、瞬はその時 幸福だった。 だが、それが 正しいことなのかどうかは、瞬にはわからない――。 「俺もだ」 たったそれだけの短い言葉の中に どれほどの決意と覚悟が込められているのかを推し量ることもできないほど――氷河の声には、痛みを伴うほどの真摯が伴っていた。 瞬にはそう聞こえた。 瞬が彼の顔を見上げ見詰めると、氷河がその険しい表情をすぐに和らげてみせる。 その微笑が、瞬の不安を消し去るために作られたものなのか、あるいは本心からのものなのかは、瞬にはわからなかった。 が、ともかく、彼は瞬に至極軽やかな笑みを返してよこしたのだ。 そして、言った。 「あれを捨てようとしたのは……俺は夕べ あんなものよりもっと大事なものを手に入れたから、あれはもう俺には必要がないもののような気がしたんだ。おまえを俺のものにできたことが嬉しくて、浮かれて――あまり深くは考えていなかった。少々軽率だったな」 「氷河……」 その言葉が、それを捨てて欲しくないと思っている者のための虚言なのか、あるいは単純な事実にすぎないのかも、瞬にはわからなかった。 いずれにしても、瞬は彼の言葉を信じることしかできなかったし、また 信じたかったから。 氷河の首に両腕を絡め、すがりつくようにして、瞬は彼を抱きしめ、そして抱きしめられた。 瞬の身体を包む氷河の腕と胸は力強く、温かく心地良い。 氷河に抱きしめてもらえれば、瞬は不安を忘れることができた。 |