それは俺だと、彼が答えてくれることを瞬は期待していたのである――否、瞬は半ば以上信じていた。 少なくとも、『あれ だが、彼は瞬の期待に応えてはくれなかった。 彼からの返事は、いつまで待っても返ってはこなかった。 では、あれは、彼が『あの臆病者』と呼ぶ人物だったのだろう。 「あれは……だが、俺は、あの臆病者よりずっとおまえを――」 瞬の心を繋ぎとめるための嘘をつくことはできないらしい彼は、僅かに眉根を寄せ、嘘を言う代わりに、瞬が好きになった男を非難することを始めた。 「あれは、俺ほどおまえを見ていない。おまえを思っていない。臆病で、おまえに触れることさえ恐がっている。臆病なくせに薄情なんだ。奴はおまえの好意に気付いてる。だが、いつかは失われるものを愛しても何にもならないと自分に言い聞かせ、おまえの気持ちを踏みにじっている。クールというなら、確かに奴はクールだ。冷酷で計算高い。あんな奴より俺の方が、ずっとおまえを愛している……!」 「氷河……」 人は、愛されているから、愛するのではない。 人に愛されることは、自分がその人を愛するか否かに重大な影響力を持つ要因の一つだろうが、それは決してすべてではない。 “氷河”を貶める彼の心が切なくて、瞬の胸は激しい痛みを覚えた。 だが、瞬は庇わずにはいられなかったのである。 自分が好きな“氷河”――を。 「あなたは氷河なんでしょう? 氷河の心がわかるんでしょう? 氷河は本当にそんなに冷酷なの。僕が知ってる氷河は、確かにちょっと不器用だけど、人を愛することにかけては本当に――いつもとても真剣だった。なぜそんなに深く人を愛せるのかと思うくらい、氷河はいつも真剣で、氷河はいつだって 人を愛することに自分のすべてを傾けていた。僕は、彼に愛されている人たちをずっと羨んでいたよ。氷河は誰かを愛したら永遠に――たとえその人が死んでも永遠に愛し続けるんだろうと」 “永遠”という言葉を、瞬は氷河によって信じる気になった。 それは、物理的な意味では“永遠”と呼べない“永遠”、客観的にも“永遠”と表することは明確に誤りであろう“永遠”である。 だが、瞬の心の中で、心の次元で、それはまさに“永遠”――終わりのないもの――だったのだ。 「愛は技術だ。相手に対する気遣い、行動、発言。思いだけでは何にもならない。俺は奴よりもずっと――ずっとうまくやれる」 “彼”が、瞬の心を自らに繋いでおくために必死に訴えてくる。 瞬がその胸に痛みを感じずにいられないほどに、彼は必死だった。 その技術を生む根本の力が“思い”であることも、瞬は知っていた。 “彼”がその両方を備えている稀有な恋人だということも――瞬は知っていた。 ――だが。 「僕が本当につらかった時、僕の心を救ってくれたのは僕の氷河だった」 「俺が! 俺がおまえの氷河だ! おまえがあの臆病者を好きだと言うのなら――俺がおまえを好きな気持ちはどうなる !? 俺は、あの臆病者を見兼ねて、あの臆病者のために、おまえを他の誰かに奪われて泣くあの馬鹿を見たくなかったから、こうして出てきたんだ! 俺はおまえを愛するためだけに存在する人格なのに、おまえはそれを否定するというのか !? 俺がおまえに、小さな花ひとつを手渡さなかったくらいのことで!」 「氷河……」 その名を呼びながら、瞬は初めて――認めざるを得なかった。 “彼”は自分が好きになった氷河ではない――ということを。 「その花が僕にとってどれほど大切なものだったか、あなたにはわからないの……」 “氷河”の姿を有し、“氷河”の記憶を有するものが、そんなことすら――そんな些細な、だが何よりも大切なことを――認めようとしないという事実が、瞬に涙を流させた。 「あの花が、僕にとってどんなに――」 悲しすぎて、言葉が声にならない。 「しゅ……瞬。泣くな。泣かないでくれ」 それが、“彼”には耐えられないことだったらしい。 彼の愛の技術は、瞬に涙を流させないためだけに、彼がその身に備えたものだった。 瞬が彼の前で泣いているということは、彼の技術が無力だということ、彼の存在の意義を否定されることと同義なのだ。 “氷河”のように不器用に――瞬の涙の前でおろおろし始めた“彼”を見上げ、見詰め、瞬は彼に尋ねた。 「あなたは氷河なんでしょう?」 「そうだ」 「僕が好きなのは氷河なの」 「俺は、おまえが好きな氷河ではないのか」 「僕は、あなたを好きだよ。だってあなたは氷河だもの」 長い沈黙のあと、 「……そうか」 呻くように“氷河”は言った。 技術に長けていることが――瞬の心を察し、理解し、その心を和らげ安らげるにはどうすればいいか、どうすれば瞬を幸福にできるのかがわかってしまうことが――“彼”の不幸だった。 “彼”は、瞬の頬を両手で包み、瞬の瞼の上に最後のキスをした。 |