「自分のことでもないのに、そんなに怒ったりして、いちばんのお人よしは氷河なんだから。ちゃんと自覚してる?」
瞬は、自分の発言を突拍子のないものとは思っていないらしい。
しかし、それは氷河にとっては、全く意表を突いたものだった。

「俺のどこが――」
氷河は、そんなことは 生まれてこの方 一度も誰にも言われたことがなかった。
アテナの聖闘士たちの中でも、“お人よし”と言えば、それはいつも瞬のことだった。
瞬の評価が、氷河は不本意だったのである。
“お人よし”という枕詞は、瞬に冠せられる時にのみ褒め言葉なのであって、瞬以外の人間に対しては侮蔑の言葉でしかない。
少なくとも氷河はそう思っていた。
だが、瞬はそうは思っていなかった――らしい。

「貧乏くじを引くのが得意なせいでもないだろうけど、僕は、自分のものと言えるものを何も持っていない。文字通り無一物なんだ。僕は氷河にどんなに優しくしてもらっても、何にも返してあげられない。なのに、氷河は僕に優しくしてくれるじゃない」
「おまえは、俺の倍も俺に優しくしてくれるじゃないか」
「氷河はそうされることを期待して、僕に優しくするの」
「それは……」

それは違うような気がした。
氷河は、そういう報いを求めてはいなかった。
無論、瞬に優しく接してもらえることは嬉しかったが、瞬の謝意を期待したことはない。
そんな報いを期待した行動に及ばなくても、瞬から優しさを得ることができることを、氷河はよく知っていた。
氷河が瞬に――その言動が“優しさ”と言えるものだったとして――優しくする際に期待することといえば、それはせいぜい、そうすることで瞬が泣かずにいてくれることくらいのものだった。
が、基本的には、氷河は、そうせずにいられないからそうしていた。
たとえば、瞬が自分と寝てくれなくなっても、自分は瞬を愛することをやめられないだろうと思う。

「氷河が僕に優しくしてくれるのは、そうできるのは、氷河が他の誰かに愛されて優しくされてきたからだよ。その人たちに愛されたから、氷河は愛することを知った。人に優しくすることを知った。そして、氷河を愛してくれた人たちも、やっぱり他の誰かに愛されたことがあるから、愛することがどんなことなのかを知っていたんだ。そういうことって、ずっとずっと昔から人の心の中でつながってきたことなんだよ、きっと。だからね、僕も氷河からもらったものを他の人に分けてあげるの。氷河はいっぱいくれるから、僕もたくさんの人にそれを分けてあげられる」

心を持った人間という存在が この地上に出現した時から 連綿と続いてきた愛と優しさの連鎖が、瞬の目には はっきりと見えているのだろうか。
瞬の口振りは、その存在を疑う理由などどこにもないと言うかのように、自信に満ちたものだった。
「人間ってすごいね。何があっても守らなきゃならないものだと思うよ。これまで僕たちが出会ってきた神様たちは、人間は滅ぶべきものだって口を揃えて言っていたけど、絶対にそんなことない。何があっても、誰に何を言われても、人間と人間の生きている世界は守らなきゃならないものだって、氷河を見るたびに、僕は思う」

「瞬……」
自分が『ありがとう』の言葉すら求めない“お人よし”になったのは“氷河”という人間のせいだと、瞬は言う。
自分に与えられるものが多すぎるから、自分は“お人よし”にならざるを得ないのだと。
氷河は、瞬のその言葉に感動した。
それは、自分がどれほど瞬を思っているのかということを瞬が知っていてくれるということへの感動であり、また、それを瞬が心から受けとめていてくれることを知らされたことへの感動だった。
こうなると、『ありがとう』の一言も言うことのできない無礼者たちなど、どうでもいい存在になってくる。

「氷河だけじゃないよ。星矢も紫龍も兄さんも、みんなが僕にそう思わせてくれるんだ。だから、僕はきっと――」
その“二人だけ”の感動に、突然 第三者が割り込んでくるのに、氷河がムッとなる。
それに気付いて、瞬は、続く言葉は口にしなかった。
氷河に見咎められないように薄く苦笑し、それから、氷河に向かって ゆっくりした口調で、だが、はっきりと瞬は言った。
「ありがとう。僕は氷河のおかげで これまで闘い続けてこれたよ」

瞬の『ありがとう』は、氷河によって与えられたものに対する感謝の言葉ではなく、そうされることによって瞬自身がこれまで闘い続けてこれたこと、“お人よし”でいられることへの感謝の言葉だった。
氷河はそう受け取ったし、事実もその通りだったろう。
おそらく、“お人よし”の瞬が期待しているのは、あの無礼者たちの謝辞などではなく、彼等が瞬から受け取ったものを他の誰かに分け与えることなのだ。
そして、そうなることを瞬は信じている。
瞬は、そういう目をしていた。
ただ優しいだけではなく、人間というものへの信頼に満ちた瞳――を。

そんなふうな瞬の瞳を見ているうちに、氷河は、もしかしたら あの無礼者たちは、瞬なら感謝の気持ちを言葉にしなくてもわかってくれるに違いないと感じて、そして、この瞳に甘えて、その一言を言わなかったのではないかというような気がしてきたのである。
瞬の瞳はそういう瞳だった。――見る者に、そう思わせてしまう瞳だった。
だから氷河はそれ以上 不機嫌でいることをやめ、二人掛けの椅子の隣りに座ることを瞬に許したのである。






【next】