「ここだと思うけど……」 瞬はその日の夕刻、濃灰色のスーツに着替えて指定された時刻・指定された場所に赴いた。 午後7時、S宿K町はまだ歓楽街としての顔を見せてはおらず、通りを歩いているのは会社帰りのサラリーマンがほとんどである。 指定された場所はメインの通りから2本ほど外れた通りにあった。 店の名前を冠した看板がなければ、白亜のマンションと見まがう風情の建物である。 店の前面には車寄せが広くとってあり、メインの通りのせせこましさが嘘のように敷地を贅沢に使っている店だった。 『開店は8時』の旨が記されたプレートの掛けられている店のドアは開いていた。 瞬が恐る恐る中に入ると、そこは異様なほどの光に満ちた場所。 外は既に夜の闇に包まれていたため、瞬は一瞬、店内の照明に目が眩んでしまったのである。 その光の向こう側から、 「まだ準備中だよ」 という若い男の声が響いてくる。 瞬は、目をしばたたかせながら、その声に向かって答えた。 「いえ、僕、田中さんて方に、ここに来るよう言われた者なんですけど」 「ああ、マネージャーがスカウトしたって子ね。こっち来て」 「は……はい……」 声の指示に従い、店の奥に入る。 あまり広くない通路を5メートルほど進むと、瞬の目の前に突然広い空間が開けた。 店は、そこから広いホールを見おろすことのできる造りになっている。 客を迎えるフロア自体は、地階にあるらしい。 天井には、瞬の感覚ではあまり上品とは思えない、いかにも似非ブルジョア風のシャンデリアが、広いホールに光を放射している。 ホールは低いパーティションで区切られ、それぞれの区画にテーブルとソファが幾つも置かれていた。 気後れしながら、瞬がその様を眺めていると、先ほどの声の主がやっと瞬の視界に入ってくる。 彼は髪を撫でつけるように後ろに流し、どこがどうと具体的に指摘はできないのだが、妙に仕草に作為的なものを感じさせる20代前半の青年だった。 その青年が、瞬の姿を見るなり、 「あ、マネージャーがスカウトしたって子とは違うか。君、誰。何の用?」 と尋ねてくる。 瞬は正直なところ、こんなぞんざいな言葉使いで福祉施設の職員が務まるのだろうかと、彼に対して疑念を抱いてしまったのである。 自分が客ではなく、彼より年下だということを考慮しても、それは、福祉施設の人間が初対面の人間に対して用いる言葉使いではなかった。 瞬がこの職場と職員に当惑し始めた ちょうどその時、地階のホールの奥にあったドアから、瞬に名刺をくれたあの男性が姿を現した。 ぞんざいな言葉使いの若い男が、彼に声をかける。 「あ、マネージャー。えらく仕立てのいい服を着た女の子がマネージャーに呼ばれたとかで来てますが」 「ああ、あの子か」 広いホールを突っ切って、彼が瞬のいるところに来るより先に、ぞんざい氏の声を聞いた数人の同僚らしき者たちが、瞬の周りに集まってきた。 彼等は店のあちこちで開店の準備にいそしんでいたものらしい。 「おい、このスーツ、30万はするだろ」 「この髪、脱色してるにしては自然な色だな」 「新入りのホスト志願かと思ったら、女の子か」 「ウチのオーナー、ホストクラブの成功に気を良くして、新しくレスビアンバーでも出す気なのか、もしかして」 背の高い男たちに、瞬の感覚では無遠慮としか言いようのない対人距離で囲まれ、その上 服や髪に何の断りもなく触れられて、瞬は身体を縮こまらせた。 彼等の 初めて会う人間への距離感のとり方が、瞬には異様なほど不躾なものに感じられたのである。 そこにやっと広いホールを突っ切って あの男性がやってきて――どうやら彼はこの店の管理運営を任されているゼネラル・マネージャーらしい――彼の部下たちをたしなめた。 「おまえたち、それでもホストか。人を見る目がないと、上客を逃がすことになるぞ。こんな顔をしていても、この子は男だ男」 低いどよめきが瞬の頭の上で湧き起こる。 ますます身体を小さくした瞬に、彼はにこやかな笑みを投げてきた。 彼は彼の見付けてきた新しい従業員のキャラクターの特異さを改めて認識し、悦に入っているらしい。 「よく来たな。ここが君の職場になる。気に入ったか?」 「え……あの……本当にここが……?」 戸惑いの極致にある瞬を、彼がまた値踏みするように見やる。 それから彼は、満足そうに浅く頷いた。 「歳の割りに、そこいらの新入社員よりずっとスーツ姿が板についているが……こういう仕事は初めてなんだろう?」 「はい……あの、でも――」 こんな派手派手しい場所に、本当に日々の生活に疲れた人たちが集まってくるのかと、そして、その人たちは本当にこんな場所で憩うことができるのかと、瞬は彼に尋ねたかった。 が、瞬がそうしようとするより先に、彼は瞬のために店の案内を始めてしまい、そのため瞬はその機会を逸してしまったのである。 理解が追いつかず、派手な照明に目がくらんでいるうちに、瞬はその店の一員として組織の中に組み込まれてしまったのだった。 |