北狄の国にも城はあったが、そこに玉座というものはなかった。
北狄の王は、基本的に国を支配する者ではなく、その時の民の代表者に過ぎないからである。
自らが陥落させた異国の城の、無意味に豪奢で、それゆえ座り心地の悪い玉座というものに座って、氷河は浮かぬ顔になった。
氷河の父の代から 氷河の家に仕えていた従僕が、訝るように自らの主人を見詰める。
彼は、氷河の現状を晴れがましいものに感じているらしい。
そんな彼に、氷河はぼやくように告げた。

「戦をせず、善政をけば国は栄える。予言者でなくても容易に想像できることだ」
「ですが、あの者はどう見ても、おつむの方が少々足りないようで。そんな想像をする知能を持ち合わせてはいないでしょう」
「白痴の者がそれを言うから、信憑性があるというわけか」
「この国では、あのおつむの足りない予言者の言葉が非常に重んじられているんです。あの者をあなたが手の内に収めている限り、この国における我が国の支配は安泰です」
従僕の言葉を片手で軽くいなして、氷河は玉座から立ち上がった。
今はブドウの実に執心しているらしい予言者の側に歩み寄り、その肩を掴んで振り向かせる。

「頭は足りないようだが、確かに美しい。ここは裏切りがたび重なった城だそうだが、本当は謀反人たちの狙いは、王の玉座と同時に、おまえを手に入れることだったんじゃないのか? おまえはこれまでの王たちの寝所に はべってきたんだろう?」
意味がわかるのかと思いつつも、氷河は尋ねずにはいられなかった。
なめらかな肌、素直な髪、澄みきった瞳。
氷河にはそんな趣味はなかったが、知能の足りないものを玩具のように弄ぶことに快感を覚える者もいるだろう。
もとは数百年の歴史を持つ高貴な王家の末裔を汚すことで、歪んだ優越感に浸りたいと考える者もいたに違いない。
自分のそんな推察に苦いものを感じながら、氷河は予言者を問い質した。

小卓にとりついていた予言者が、きょとんとした顔になって、彼の新しい王を見上げる。
それから彼は、また首をかしげてから、氷河に告げた。
「あのね、僕は汚れると未来を見る力を失うの」
「それも予言か」
「何となくそう感じるだけ。でも、ケガレルっていうのがどういうことなのかは、僕、知らない」
「汚れていないのなら当然だな」

では、これほどの、いわゆる“上玉”を側近くに置きながら、西戎からの侵略者たちは誰もこの予言者に手をつけずにいたのだろう。
大勢の女たちを引き連れて見苦しいありさまで王城から逃げ去っていった西戎の王に、氷河は初めて尊敬の念を抱いた。

「これだけの美形、誰もがそれを考えたでしょうが、これまでの王たちは皆、我慢していたようです。西戎の者たちは、この城で奢侈に浸り、すっかり脆弱の輩に成り下がっていたようですが、色に溺れて自身の地位を危うくする危険を冒すことほど愚かでもなかったようで」
おそらく下働きとしてこの城に勤めている華胥の生まれの者たちから聞き込んできたのだろうが、氷河の従僕は、この城の一通りの情報を既に把握しているらしい。
彼がそんなことをしたのは――どう考えても、氷河がこの城とこの国の主になることを望んでいるからのようだった。

「国や城は奪われても、その身の無垢だけは守り抜いたというわけか」
従僕のもたらした情報が、氷河にとっては不快なものではなかったので、氷河は彼をたしなめることはしなかった。
当の話題の主は、この城と国の明日には興味もなさげに、目の前の甘い実に夢中でいる。
「ブドウ、おいしい。ね、これ、もっと食べられるようにして。これ、乾しておくと、冬でも食べられるんだよ。あのね、国の西方に広がるブドウ畑が見えるの。あの土地には麦や米よりブドウの方が合ってるの。たくさん植えて」

「実に有意義な予言だな」
知恵の足りない者は、この国の明日ではなく、数年後の実りを見詰めているようだった。






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