浜から さほど離れていない丘の上に、シュンと名乗った子供の家はあった。
シュンが“灯台”と言っていたその家は、決して高塔ではなく、見たところ、普通の3階建ての住居と変わらない高さをしか有していなかった。
小高い丘の上にあり、周囲に人家がないせいで――他のまぎらわしい灯かりがないせいで――そんな建物でも十分に船の道しるべになり得るのだろう。
家そのものは質素なものだったが、最上階の小部屋だけは三方に高価なガラスが嵌め込まれた特別な造りになっていた。

その小部屋の中央にある鯨脂のランプに灯をともすと、シュンはハシゴと表した方がいいような階段を下りて、1階の居間に戻ってきた。
居間といっても、木のテーブルと椅子があるだけの殺風景な空間である。
その居間には4方に扉があり、その扉がそれぞれ寝室や台所に通じているらしい。
先に木のテーブルについていたヒョウガの向かいの椅子に腰をおろし、シュンは手にしていたランプをテーブルの中央に置いた。

「これで、僕の仕事はおしまい。これだけで、港の協会からお給金をもらえるの。楽な仕事だけど、誰もしたがらない仕事だから、僕ひとりが暮らしていくのに困らないだけの手間賃をもらえてる。もっとも、食べ物はほとんど海で調達できるから、パンや服を買いに東の町に行った時に必要な分だけ受け取るようにしているんだけど」
テーブルの上には、パンと、魚介を材料にしたスープの入った皿が並べられている。
暮らしに困っていないというのは事実のようだった。
と言っても、それは、シュンが贅沢を好まない人間だからではあったろうが。

「本当に、こんなところに一人で暮らしてるのか。家族は――」
これほど若くて綺麗な娘が たった一人でこんな辺鄙な場所で暮らしている無用心を 誰もいさめないのかという素朴な疑問を、ヒョウガはその胸中に抱いたのである。
たとえば今、自分が獣になってシュンに襲いかかっていっても、シュンは誰にも救いを求めることができないではないか――と。
もっともその状況が逆にヒョウガに自制を促したのもまた、紛うことなき事実ではあったが。

「兄がひとりいるけど、船乗りなんだ。年に1回帰ってくるかどうか」
「寂しくはないのか」
「もう慣れちゃった」
殺風景な部屋に灯かりが一つあるだけのせいなのか、シュンの笑顔がひどく物悲しいものに見える。夕陽の色に染まった浜で見たシュンの姿は、その手足の細さのせいで頼りない印象ばかりが先に立ったが、ランプの作る陰影の中にあるシュンの様子は、ヒョウガの目に妙に艶めいて見えた。

「両親を早くに亡くして、僕の兄さんは、僕を育てるために――手っ取り早くお金を儲けるために、 船に乗ったの。でも、海って、何か人の心を惹きつけるものがあるらしくて、僕が働けるようになってからも、兄さんは海に出続けてる」
では、シュンは完全な孤独というわけではないのだ。
ヒョウガは天涯孤独の己れの身の上を忘れて、そのことに安堵を覚えた。

「どうしてだろうね。僕は、砂浜に立っているだけでも、自分を頼りなく不確かなものだと感じるよ。海に出たら、人はもっと不安な気持ちになると思うのに――」
人間というものは、住む場所や境遇がどうであれ、二つの種類に大別できる。
すなわち、海に出る人間と、港で待つ人間。
おそらく、シュンは後者で、シュンの兄は前者なのだろう。

「どうして行っちゃうのって聞いたら、僕がここにいるからだ――って、兄さんは言ってた。帰る場所があるから出掛けていけるんだって。だから僕、ここで兄さんを待ってるの。それに――」
「それに?」
「……ううん」
寂しい夜の話し相手としての素質に、自分が全く恵まれていないことを、ヒョウガは生まれて初めて自覚したのである。
こういう場面に慣れていないせいもあるが、他人と言葉の応酬を楽しむという作業が、ヒョウガは極めて不得手だった。

「ヒョウガは……お母さんを捜してるんだよね? どうして離れ離れになったの」
自身のことを語り終えると、シュンは今度は客人への詮索を開始した。
普段たった一人でこんな寂しい場所に暮らしているのでは、声を発すること自体が久し振りなのかもしれない。
そして、そういう人間に限って、一人でない時には沈黙を恐れるものなのだろう。
この 寂しい小さな人間のために、ヒョウガは特別に自身の身の上を語ってやることにしたのである。

「12年前に、俺は母と共に、ノボロシースクからボスポラス海峡を越えてアテネに向かう船に乗ったんだ。エーゲ海に出たところで、運悪く、ヴェネツィアの商船が海賊に襲撃されているところに出くわした。そのまま回避すればよかったのに、ヴェネツィアの警備艦隊の旗色がいいことを見てとった船長は、ヴェネツィア側に加勢すれば相当の謝礼が手に入ると考えたんだな。俺と母の乗った船はその海域にとどまり、海戦の巻き添えを食って、俺は海に落ちた。それきり母には会っていない」

自分の身の上を他人に語るなどということを、ヒョウガはこれまで一度もしたことがなかった。
ヒョウガはまだ20を超えたばかりで、シュンのような子供でなければ、そんな若造に語るほどの過去があるとは誰も思わないのだろう。
人にそれを問われたこともない。
自らの身の上を言葉にして、あれからもう12年が過ぎたのだと、他の誰でもないヒョウガ自身が深い感懐を抱いていた。

「俺は幸いヴェネツィアの警備艦隊に引き上げられて命は失わずに済んだんだが、俺が目覚めた時には、母の乗った船は海賊船に引かれていったあとだった。その時から俺は――」
イタリア、ギリシャ、エジプト、ヴィザンチン、トルコ――生き別れた母を捜し続けて、最後に こんな地の果てのようなところにまで来てしまった。
ここで見付からなかったら次はどこへ行けばいいのかと、正直、ヒョウガは判断し兼ねていたのである。

「12年間もずっとひとりで捜してたの? お母さんと別れた時、ヒョウガはまだ子供だったんでしょう?」
「8歳にはなっていた。まあ、人間、何をしてでも食っていけるもんだ。俺はスラヴ語やアルメニア語が使えたから通訳ができたし、俺を拾ってくれた船はヴェネツィアの警備艦隊だったからな。腕が立つようになれば、戦闘員として雇ってもらえるようにもなった。で、船をいくつも渡り歩きながら、あちこちの国に行き、母を探して回ったわけだ」

ヒョウガが生きてきた半生は、港で待つタイプの人間であるところのシュンには、想像を絶する冒険だった。
シュンは、彼の前で、細く長い溜め息をついた。






【next】