「そんなに、お母さんっていいもの?」
尋ねてしまってから、シュンは、自分がこれ以上ないほどの愚問を発してしまったことに気付いた。
それがよいものでなかったら、彼は12年もの時間を彼女に奉げたりはしなかったろう。
幸い――と言っていいのかどうか――ヒョウガはシュンの愚問に答えを返してはこなかった。
代わりに別の質問をシュンに投げてくる。

「おまえは自分の母親が好きではなかったのか」
「僕の母さんは、僕が生まれてすぐに死んじゃったの。多分、僕を産んだせいで。――全然憶えてないんだ」
「ああ……。それは気の毒に」
その言葉が、我が子を残して亡くなった母親に向けられた言葉なのか、生まれると同時に母を失った子供に向けられた言葉なのか、それはシュンにはわからなかった。
いずれにしても、シュンは彼に同情などされたくはなかったので――彼の同情を受ける権利を自分は有していないと思っていたので――少々無理をして彼をからかうような笑みを作った。
そして、彼に尋ねた。

「ヒョウガにはお兄さんはいる?」
「いや」
「お兄さんがいないなんて、かわいそう。お兄さんて、優しくて強くて頼り甲斐があって――」
母親に代わるものが、ちゃんと自分にはいてくれたのだと知らせることで、シュンはヒョウガの同情を打ち消そうとした。
そんなシュンに、ヒョウガが薄い微笑を向けてくる。

「その優しくて強くて頼り甲斐のあるオニイサンというやつと、もし生き別れることになったら、おまえは必死に捜すだろう?」
「もちろんだよ」
「俺もそうだというだけのことだ」
「……」
シュンが、返す言葉に窮する。
つまり、肉親というものは“いいもの”なのだ。
もし失ったなら、どんなことをしてでも取り戻したいと思うほどに。
そしてヒョウガは、彼の“いいもの”の所在と運命をまだ知らずにいる。
シュンは唇を噛んで、瞼を伏せた。

「で、おまえの優しくて強くて頼り甲斐のあるオニイサンは今はどっちの方に行っているんだ?」
黙り込んでしまったシュンに、ヒョウガがふいに尋ねてくる。
シュンは気弱に顔をあげ、尋ねられたことに答えた。
「わからない。兄さんは、もう1年半も帰ってきてなくて……。でも、元気だと思う。何かあったら、仲間の誰かが連絡をくれるはずだから」
黒海、地中海、カスピ海――海は東西の交易の場として栄えているが、昨日友好的だった異教徒たちが明日も友好的であるとは限らない。
危険に満ちた場にいるからこそ、船乗りたちの連絡網は発達してる。
だから、便りのないのは元気な証拠と思っていることが、シュンにはかろうじてできていた。
だが――。

「寂しくはないのか」
ヒョウガが、もう一度同じことをシュンに尋ねてくる。
シュンは今度は何も答えはなかった。

無言で俯いたシュンの耳に、ヒョウガの微かな溜め息が届けられる。
彼の同情を受けるわけにはいかないと、シュンはそれだけを考えていた。
ヒョウガがそんなシュンの気持ちに気付いているはずはないのだが、彼はシュン一人だけを“かわいそうな子供”にしておくことはしなかった。
彼は、
「俺たちは、かわいそうな者同士なわけだ」
と、シュンに言った。
「うん……」
自分だけが寂しい子供にさせられずに済んだことが、シュンの心を素直にする。
シュンは彼の言葉に、微かにではあったが頷いた。

「ヒョウガは少し僕の兄さんに似てる」
「ということは、おまえの兄は相当いい男なんだな」
「全然違うタイプだけど――でも、兄さんの手もこんなふうに大きくて――」
テーブルの上に置かれていたヒョウガの右手に、シュンは恐る恐る指を伸ばし、指先で彼の手の甲に触れた。
「こんなふうにあったかくて――」
最後に人の肌に触れたのはいつのことだったろう――?
一人きりの長い時間を耐えたあとで やっと触れることのできた人の温もりが“ヒョウガ”のそれであることが、シュンの胸に痛みを運んでくる。
そして、自分の触れたものが温かいことが、シュンに寂しさをも運んできた。

(寂しい……?)
自分はずっと寂しかったのだろうかと、シュンはこの時 初めて思ったのである。
そんなことは、これまで ただの一度も考えたことがなかった。
人が大勢いる町にはいつでも行ける。
にも関わらず、自分が誰もいないこの浜で暮らしているのは、自分自身の意思であり望みなのだと、シュンはこれまで疑いもなく信じていたのだ。

異邦人の手の甲に、臆病に指先だけで触れているシュンの手を、ヒョウガは払いのけることはしなかった。
代わりに、低い声で囁くように言う。
「おまえも俺の母に似ている」
「ヒョウガのお母さんも、変わり者だったの?」
「綺麗で寂しげなところが」
「寂しくなんか」
『ない』と言おうとして、シュンはそうするのをやめた。
ヒョウガの目にそう見えるのなら、それが真実なのかもしれないと、シュンは思った。






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