「ごめんね、何もないところで」
シュンの言葉通りに、そこは何もない部屋だった。
普段使われていない部屋らしく――物置としても使われていないらしく――ものの見事に何もない。
さほど広くはない部屋が、そのせいで実際の倍も広く見えた。
無論、寝台もない。
シュンは、その何もない部屋の石の床に厚手の布を幾枚も重ねて、即席の寝床を作っていた。
優しくて強くて頼り甲斐のあるシュンの兄の部屋でもあてがわれるのだろうと、ヒョウガは思っていたのだが、この家にはシュンの兄の部屋はないらしい。
シュンに尋ねると、たまに帰ってきても兄は東の港町に宿をとるのだという答えが返ってきた。
「ここにいると、海の情報が入ってこないから」
と、シュンは言った。

「ここで眠れるかな?」
窓からの月明かり以外に何もない部屋に寝床を作ると、シュンは心配そうにヒョウガに尋ねてきた。
「十分だ。俺は地べたで寝たこともある」
確かにここには何もないが、へたに人間の多い町で宿をとるより、盗人やごろつきの類の心配をせずに済む分、ヒョウガにとって この家は良宿だった。
しかも、宿の主人は極めつきの美形。
ヒョウガに不満のあろうはずがない。

「僕、居間を隔てた向かい側の部屋にいるから――何かあったら声をかけて」
「勝手に転がり込んできた者に、そう気を遣うな」
そう言われても、シュンはまだ、自分の差配に手落ちがないかどうかが気にかかっているようだった。
が、やがて、自分にはそれ以上客人にしてやれることはないと悟ったらしく、手にしていたランプを床に置いて、部屋を出ていこうとする。
樫の木でできた扉に手をかけたシュンは、しかし、また、即席の寝床の上に腰をおろしているヒョウガの方を振り返った。

「あの、ヒョウガ……もし、波の音が寂しかったら――」
シュンがもし『うるさかったら』と言っていたなら、ヒョウガは彼に首を横に振るだけで済ませていただろう。
シュンが告げた言葉が『寂しかったら』だったので、それを寂しいものと感じているのはシュンの方なのだと、ヒョウガは気付くことができた。
「寂しかったら、おまえが慰めてくれるのか」
もちろんヒョウガは冗談で――シュンの寂しい気持ちを引き立たせるために、そう言ったのである。
「え……」
シュンは一瞬 戸惑ったように瞳を揺らしたが、しかし、ヒョウガの冗談を否定するようなことはしなかった。
否定されないことを訝って――というより驚いて――ヒョウガは、扉の前に立つシュンの姿を、まじまじと見詰めることになったのである。

浜で出会った時のまま、シュンは 手足を剥き出しにした白い布一枚だけで、身体を覆っていた。
その腕は細く、脚も細い。
突然転がり込んできた旅人を見詰める緑色の瞳は、静寂以外の友を持たない深海が孤独に身悶えるように揺れている。

誘われている――と思ったのは、事実ではなく、ヒョウガの願望にすぎなかったのかもしれない。
だが、警戒して当然のよそ者に、シュンが最初から好意的だったのは、疑いようのない事実である。
もしかしたら人恋しさで、シュンはそれを求めているのかもしれないとヒョウガが考えた――感じた――のは、さほど不自然なことではなかっただろう。
実際、ヒョウガがシュンに向かって手を差し延べると、シュンは、覚束ない足取りでではあったが、その手に引かれるようにヒョウガの許にやってきて、その前に膝をついたのだ。

シュンの腕を掴み、引き寄せ、胸にすっかり収まってしまう小さな身体を抱きしめて、ヒョウガはシュンの唇に自らの唇を重ねた。
呼吸することを忘れているようにして その口付けを受け止めているシュンの身体を、唇を合わせたままで、ヒョウガは自分の下に敷き込んだ。
そして、シュンの身体を覆っている服とも言えないような布を取り除いた時に、ヒョウガは初めてその事実に気付いたのである。

「おまえ……男か !? 」
「……?」
シュンの瞳は、相変わらず海の底の色をたたえて、静かな海の底の水のように揺れている。
シュンは、そんなことは最初から知ってもらえていることと思っていたのだろう。
だが、ヒョウガは、そんなことも確かめずにシュンを抱きしめてしまった自分自身に、少々あきれていたのである。

確かに普通の人間は、名を名乗る時に己れの性別にまで言及したりはしない。
シュンはその事実を隠そうとしたわけでも、偽ろうとしたわけでもないだろう。
ヒョウガ自身、シュンを少年と認めてはいなかったが、ことさらシュンに女を意識していたわけでもない。
ただ、その風情が男のものに見えなかったから、男でないものと思い込んだにすぎなかった。
要するに、シュンは女より綺麗なのだ。
髪は海水の塩のせいなのか、少しばかり色素が薄かったが、肌は真珠のように滑らかである。
シュンの身体が少女のものでないことは、大した不都合ではなかった。

「ヒョウガ……?」
「いや、何でもない。おまえは温かいな」
抱きしめずにいられないものが、目の前にあるのである。
ヒョウガは、それを抱きしめずにはいられなかった。






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