その饗宴から数日後。
シュンは、ローマ市内で最も大きな奴隷市の立つ広場にやってきていた。
10日振りの奴隷市開催とあって、広場は数多くの市民たちでごったがえしている。
これほどの混雑の中に我が身を投じるのは これが初めてだったシュンは、自分より足許が覚束ないはずの供の老人についていくのが精一杯というありさまだった。

「できれば、若すぎず、反抗的でなく、腕がたって、無口な男がいいですな。ああ、もうりが始まっている」
シュンが老人と連れ立って奴隷市にやってきたのは、彼の護衛をできる奴隷を求めてのことだった。
シュンの兄はアフリカの任地に発つ前に、その役目を担う者として、腕の立つ腹心の部下を残していってくれたのだが、先だっての皇帝主催の饗宴の前日、彼の故郷の母親が病気だという知らせが入り、シュンは彼に帰郷を許したのである。
彼に代わる護衛を求めて、シュンは老人と二人でここにやってきた。
これから、おそらく四六時中行動を供にする者を、シュンは自分で選びたかったのだ。
――が。

初夏の青空の下で行なわれている 人の売り買いの様に、シュンは全く良い印象を抱けなかったのである。
ローマの市民たちに買われるために壇上に引き出される奴隷たちが、もし自分だったらと思うと、見も知らぬ者の家に買われていく異国の者たちが気の毒でならない。
しかし、ローマでは、ありとあらゆる人材がここでしか手に入らないのである。
市民の生活を維持するための使用人も、石工も機織職人も教師も医師も兵士も妾も、時には恋人でさえ、ローマの市民たちはすべてをここで調達する。
奴隷として売りに出される者たちの中には、ローマ軍の侵略を受けた地域から連れてこられた捕虜も多く、誇りを奪われ、疲れきった様子で壇の上に立つ彼等の姿は、一様に諦観で縁取られていた。
その中には、ローマに侵略された国の かつての王や族長が紛れていることもある。
それが、ローマの奴隷市だった。

「さて、次の男はすこぶるつきの美形だぞ。武器も使える。身体も鍛えてある。剣闘士としてもいけるし、力仕事もできるだろう。ただし、浮気性の奥方がいる家では、こいつを買うのはやめておいた方がいいだろうな」
この奴隷市を取り仕切っている男の口上に、市民たちがどっと沸く。
シュンが顔をあげると、広場の中央に設置されている高い壇の上には、一人の金髪の若い男が引き出されてきていた。

これまで売り買いされていた奴隷たちとは異なり、彼はまだ生来の誇りを失ってはいないらしい。
うろたえた様子もなく、眼下にひしめき合う購買者たちに投じられる彼の眼差しは、世界帝国ローマの市民たちを軽蔑しきっているように挑戦的だった。
「彼も奴隷なの……」
彼の目の持つ力は、シュンには、到底奴隷のものとは思えなかった。

彼は、ほとんど裸体で、両腕は木の枷につながれていた。
そんな木枷など簡単に引きちぎることができそうに見えるのに、彼がそうしないことが、シュンには不思議でならなかった。
シュンは、彼の奴隷らしからぬ堂々とした様子を見て、彼は宮殿で皇帝の側にはべっている貴族たちより はるかに美しいし気品があると思ったのである。
そうしてから、女のように顔に粉をたたいている貴族たちの顔を思い出して、彼をあの自堕落な者たちと比べるのも失礼だと――奴隷に対して――シュンは思った。

彼のその、まるで運命に挑むかのように強い光をたたえた瞳――。
(え……?)
広場には奴隷を求めてやってきた市民たちが、数百人単位でひしめき合っていた。
今はその中の一人にすぎないシュンは、だが、突然、自分が壇上に立つその青年に強く見詰められているような錯覚を覚えたのである。
二人の間には相当の距離があった。
だから、それは錯覚のはずだった――錯覚でないにしても、偶然のはずだった。
だが、一度シュンと出会ってしまった彼の瞳は、もはやシュンの上から逸らされることはなかった。
何かを強く訴えるような彼の眼差しに引き込まれ、彼の上から視線を逸らせずに、シュンは連れの老人に告げたのである。

「あの人……あの人を買いたいのだけれど」
「あの者は若すぎるような気がいたしますが。できれば30を過ぎた、分別のありそうな者を――」
いつもならシュンは、老人の忠告や助言は、余程のことがない限り素直に聞き入れていた。
シュンが生まれた時には既に シュンの家で奴隷たちの管理に当たっていた彼は――彼自身も奴隷ではあったのだが――シュンよりはるかに多くの物事を知っている、生活面でのシュンの教師のようなものだったのだ。
しかし、今は――。
「あ……あ、値が上がっていく。いいから買って! 僕は、彼がいいの!」
「買うにしても、焦ることはありません。こういうことには駆け引きというものがあるのですよ」
いつもは余裕に思えていた老人の悠長さが、シュンには、今日ばかりは魯鈍に感じられて仕方がなかった。

普通の奴隷の値段は1000デナリウス――というのが相場である。
奴隷としては扱いが難しそうに思えるにも関わらず、彼の値は、2000、3000 と吊り上げられていく。
その値が、奴隷の値段としては破格の5000デナリウスを超えると、ついに声はあがらなくなった。
シュンは老人を急かしたのだが、彼は今度は高くなりすぎた奴隷の値に渋面を作り、一向に声をあげようとしない。
はらはらと成り行きを見守っていたシュンは、それ以上、“彼”のことを他人に任せることに耐えられなくなり、自ら、
「1万デナリウス!」
の声をあげてしまったのである。

「若様! 役に立つかどうかもわからないものに、そのような!」
「1万 !? 」
突然2倍になった奴隷の値段に、シュンの連れの老人と 壇上の奴隷の仲買人とが同時に声をあげる。
たった一人の奴隷のために、平均的なローマ市民20人分の年収を払おうという“子供”に、広場にいた市民たちは皆、驚嘆と軽侮の混じった視線を投げてきた。
ただ一人、シュンに買われた奴隷だけが落ち着き払った様子で――彼は無言で微笑んでいた。

「これはまた可愛らしい貴族の坊ちゃんだ。こいつはお買い得だぞ。綺麗な上に鍛えてある男だから、せいぜい可愛がってもらうことだな」
仲買人は思わぬ大儲けに上機嫌のていで、金髪の奴隷の持ち主であることを示す証書を、シュンに手渡してきた。






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