自邸の部屋の 背もたれのない布張りの長椅子に戸惑ったように腰掛けて、なぜこんなことをしてしまったのかと、シュンは自分自身を訝っていた。 シュンの目の前には、身体を洗い、 彼の両手は自由を取り戻していた。 身仕舞いを整えた奴隷を改めて間近で見ると、彼は、この世界帝国の都でも滅多に見ないほど美しく精悍な青年だったが、彼の美しさはむしろシュンを戸惑わせるものだった。 自分がこの奴隷の美しさに惹かれて彼を買い求めたのではないことがわかるから なおさら、シュンは自分の行動が理解できなかったのである。 シュンが惹かれたのはおそらく、冷めているのか燃えているのかの判断が難しい彼の眼差し――だった。 「あなたの名前は何というの? 出身はどこ? 言葉はわかる?」 「ヒョウガ。ガリアだ。ローマに来て1年になる」 ローマの言葉で、存外に素直に、彼はシュンの質問に答えてきた。 「ガリア……。では、捕虜としてローマに連れてこられたの?」 「ガリアはもうローマの属国ではない。ローマの友好国だ。――そういうことになっている」 シュンの発言が不愉快だったのか、あるいは、故国の現状が不愉快だったのか――ともかく彼はあまり機嫌が良いとは言えない口調で、そう言った。 それは、奴隷にあるまじき不遜な口振りだったのだが、シュンは、彼に奴隷の口のきき方を教える気にはならなかった。 その物言いが、彼には似合っていると思ったのだ。 「あ、ごめんなさい」 「奴隷に謝るな」 奴隷が――ヒョウガが――、やはり奴隷らしくない口調で、彼の主人をたしなめる。 シュンが困ったように笑うと、ヒョウガは、彼が奴隷の身に堕ちた経緯を短くシュンに語ってくれた。 「兵役を務めるために故国を出てローマに来たんだが、あの腐った貴族共の命令を聞いているのに嫌気がさして、隊を脱走したんだ。勝手のわからない町でうろうろしていたら、すぐに見付けられて、あっさり奴隷市場送りだ」 ヒョウガの身の上を聞き、シュンはガリアの壮絶な歴史を思い出したのである。 今から1世紀以上前、ローマ軍の侵略にあったガリアの国々は、アルウェルニー族の族長ウェルキンゲトリクスを盟主とする同盟を結成し、ローマへの抵抗を始めた。 自分たちの独立を保つべく戦うガリアの兵たちの勇猛果敢に、カエサル指揮下のローマ軍は劣勢を強いられたが、ローマからの援軍の来着によって形勢は逆転することになる。 ガリア諸部族は敗走し、ウェルキンゲトリクスはローマに投降、やがて処刑された――。 ローマの侵略に対するガリアの抵抗は熾烈だった。 ガリアは結局、ローマの陰謀と調略と組織力に負けたようなものだった。 兵の数が同じであったなら、ガリアがローマに負けることはなかったかもしれない。 ヒョウガの奴隷とも思えない不遜な態度に、シュンはそれで納得したのである。 彼は、反骨の地ガリアに生まれ育った者なのだ。 ローマの支配に屈しても、ガリア人としての誇りは、彼の体内に熱い血として流れているに違いない。 「カエサルがガリアとの戦いの記録を残してるよ」 「どうせ、その記録には、ガリアの野蛮人たちは赤子の手をひねるように簡単にローマに屈したとでも書いてあるんだろう」 「カエサルは、ガリアの戦士たちはとても勇敢だったと記してるよ。苦戦したとは書いていないけど、それは彼の立場では事実を報告できなかったからで――ローマ兵の死傷者の数を思えば、勇猛なガリアの兵士たちに、カエサルは相当苦しめられたんだろうね」 シュンは、結局はガリアはローマに敗北したのだという事実をヒョウガに思い出させるためにではなく、自身の自主独立を守るために戦い抜いたガリア人への尊敬の念を込めて、カエサルの残した記録の内容を語った。 ヒョウガの声音から、少しだけ険しさが消える。 「100年以上も昔の話だ。ガリアの者は今では皆、ローマに税を払うことを当然のことだと思っている。ローマが勇猛なガリアの兵力を必要としていることも知っているし、引け目も感じてはいない。俺は、ローマ人がガリアの地に建てたコロッセオを見て育った」 ヒョウガの言う通り、ガリアの力は今ではローマでも一目置かれるほどのものになっていた。 ガリア人はローマ市民として認められてはいなかったが、その力がローマに必要なものであることは、わかるものにはわかっている。 ローマの貴族たちが殊更ガリアの者を野蛮人と蔑むのも、彼等がガリアの強大な力を無視できないからに他ならなかった。 「ガリアの独立を奪ったローマ人を憎んでる?」 ローマ市民の一人として、シュンは切ない目をして、彼の奴隷に尋ねた。 「憎もうにも、ガリアはローマに同化しつつある。自分の身体の一部を憎むことはできない」 『軽蔑せずにはいられない者が多いのも事実だが』と付け加えて、ガリア人の奴隷はそれきり口をつぐんだ。 |