ヒョウガの部屋はないので――シュンは自室にヒョウガを連れていった。
昨晩眠っていないだけで横になるほどのことはないようだったが、ヒョウガの拘束されていた手首には痣ができている。
ヒョウガが毎晩寝台の代わりにしている黒豹の毛皮の上に彼を座らせ、シュンはすまなそうに彼の痣に指で触れた。
「ほんとに、ごめんなさい」
「そう簡単に信じるな。俺が嘘を言っているのかもしれない」
「そんなことあるはずないよ」
なぜヒョウガがそんなことを言うのか――が、シュンにはわからなかった。
たとえ冗談だとしても――冗談だったなら、これほどたちの悪い冗談はない。
「ヒョウガは僕をこれまでに何度も救ってくれた。ヒョウガが僕を殺すためにこの館に入り込んだのなら、ヒョウガはとっくの昔にその目的を果たせていたはずだよ。僕は一日の大半をヒョウガと二人だけで過ごしていたんだから」

「それも、おまえを油断させるための計略だったのかもしれない。爺さんもそれを疑っていたぞ」
「ここは裏切りと陰謀が日常茶飯の都だから。爺を責めないで許してやって」
ヒョウガはあの老人を責める気はなかった。
シュンを守りたい気持ちは、ヒョウガも彼と同じだったのだ。
ヒョウガは、あの老体よりもむしろ、シュンの気持ちの方が理解できずにいたのである。

「――おまえは、ローマ市民でもない俺を信じるのか? 野蛮人は平気で主人を裏切るかもしれない。信じている者に裏切られることほど つらいことはないぞ」
「それは……信じてる人に裏切られたら、それはもちろんつらいけど、人を信じられないのはもっとつらいことでしょう? 僕だって、誰彼構わず盲目的に信じるわけじゃないよ。ヒョウガなら信じられると思うから、信じるんだ。出会ってからこれまで、僕は、そう思うに足る誠意をヒョウガに見せてもらってきたと思うから」

その言葉に嘘はなかった。
シュンは、本当に、ヒョウガを信じるに足る相手だと思っていた。
だが、シュンは、それ以上に、自分の中にある『ヒョウガを信じたい』という気持ちに衝き動かされていたのである。
信じられるかどうかではなく、シュンはただヒョウガを信じたかったのだ。

そういう気持ちを、人が何と呼ぶものなのか――を、シュンは知らなかった。
ただ、ヒョウガを信じていると強く訴えることが 何か浅ましいことのような気がして、どうしようもないほどの羞恥を覚え、シュンは心許なく瞼を伏せた。
「ヒョウガを信じてる。ヒョウガは嘘なんかつかない――」
呟くように、自身に言い聞かせるように、シュンは繰り返した。

ヒョウガが、そんな自分の主人を、あの強い力を持った瞳で見詰める。
彼は、それから、シュンの信頼に報いるべく、きっぱりと断言した。
「俺は……おまえに買われた奴隷だ。おまえを守るためになら、命も捨てる」
シュンは、彼のその言葉に身が震えるほどの喜びを覚えたのだが、その感情を表に出すことが卑しいことのように感じられ、無理に軽い叱責の表情を作った。
「そんなに簡単に命を捨てちゃだめだよ」
奴隷にそんなことを言う貴族は、このローマには、おそらくいない。
このローマでは、奴隷は市民の生活と命を維持するためだけに存在する。
だからこそ、シュンの言葉はヒョウガには重いものだった。

「それがおまえの命令なら、その通りにする」
「その通りにして」
シュンはヒョウガの返事に安堵と、今日初めての自然な笑みを浮かべた。
その拍子に、二人の視線が出合う。
初めて会った時から自分にだけ向けられているように感じていたヒョウガの視線。
昨日そうしたように、シュンは出合った眼差しから己れの眼差しを逸らそうとしたのだが、今日は、ヒョウガの瞳の力が、シュンにそうすることを許さなかった。
ヒョウガはシュンの肩に手を置き――握りしめるようにして、その手を置き――シュンの瞳を見詰めたまま、低く、そして強い口調でシュンに告げた。

「何でも、おまえの言うことをきく。おまえが望むなら、皇帝も殺してやろう。どんなことでもする。だから――」
「だから……?」
ローマ市民――それも貴族に対して、奴隷が忠誠の代償を求めるなどありえないし、それは 許されないことである。
ローマ市民が自分の買った奴隷を殺してもどこからも文句はこないのだ。
だが、ヒョウガは、その“許されないこと”をシュンに求めた。
「だから、俺がいいと言うまで、ここに誰も呼ばないでくれ」

シュンが何ごとかを言う前に、ヒョウガの唇がシュンのそれを覆う。
シュンは、それが自然なことであるかのように、両手をヒョウガの背にまわしていった。
「ヒョウガ……」
市民が奴隷にそれをするのなら話は別だが、奴隷がローマ市民に対してそういう行為に及ぶことは決して許されない――それがローマの常識だと、二人ともわかっていた。
シュンは、その“常識”を知っていた。
だが、シュン自身も、今は誰にもここに来てほしくなかったのである。
だから、シュンは、奴隷の命令に従った。

身体を抱きあげられ、寝台に横にされる。
シュンの身体の上に重なってきた“野蛮人”の肌は、鍛え抜かれた鋼のように強く、なめし皮のようになめらかで熱く、彼の腕に抱きすくめられたシュンはその胸の中で、自分が無力で小さな子供にさせられてしまったような錯覚を覚えた。
「あ……あ……」
彼はそれでも、シュンの身体を傷付けないように、抱き砕いてしまわないように、かなり気を遣っているらしい。
強く抱きしめては、我にかえったように その腕から力を抜くことを、彼は幾度も繰り返した。
シュンは、だが、彼の腕の力が緩められるたび、そうされることがもどかしくて、切なく身悶えしたのである。






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