「じゃ、このタマネギをみじん切りにしてくれる?」
そう言って、瞬が冷蔵庫から取り出したタマネギの数は10個。
いったい瞬は何食分のカレーを作る気なのかと紫龍は訝ったのだが、彼には既にその疑念を言葉にする気力さえなかった。
ともかく彼は、瞬に命じられた仕事をさっさと済ませてしまいたかったのである。
瞬は、ケーキ屋の1軒もない絶海の孤島で暮らした数年間の反動が出たのか、今は異様なほどの甘いもの好きである。
瞬にしてみれば、料理の甘みを増すタマネギをカレーに大量投入することは至極当然のことなのだろうと、紫龍は無理に自分を納得させた。
大量のタマネギ投入の理由が何であれ――あるいは、たとえ そこに理由がなくても――、瞬に意見したところで、常識人には勝ち目はない。
そう判断した紫龍は、右手にしっかりと包丁を握りしめ、彼に託されたタマネギを刻む仕事に取り組み始めたのである。

地上の平和と安寧を乱す敵に対峙する時よりも真剣に、それこそ一心不乱に、紫龍はタマネギを刻み続けた。
そうして紫龍は、最後の1個をほぼ刻み終えたところで、瞬の視線が自分の顔に注がれていることに、初めて気付いたのである。
「なんだ?」
タマネギのみじん切りの仕事を紫龍に押しつけた瞬は、自分ではカレー作りのための作業を何ひとつしていなかった。
ニンジンもジャガイモも、彼等が厨房にやってきた時と変わらず、調理台の上にある野菜カゴの中に丸のまま鎮座ましましている。
もしかすると瞬は最初から、カレー作りの実作業のすべてを仲間に押しつけ、自分は監督だけをするつもりだったのだろうかと紫龍が疑い始めた時、瞬がおもむろに口を開いた。

「タマネギをそんなに大量に刻んでるのに、紫龍はなんで泣かないの?」
「なに?」
突然そんなことを尋ねられて、紫龍は一瞬 気が抜けてしまったのである。
そんなことに引っかかって、瞬はこれまでジャガイモの皮を剥くことさえせずにいたのだろうか――と。
「冷蔵庫から出したばかりのタマネギだから、アリシンの気化力が弱まっているんだろう。本当は、食材は室温に戻してから調理する方がいいんだがな。その時には、包丁の方を冷やして切れば、泣かずに済む。知らなかったのか?」
「……」

瞬は、その事実を知らなかったらしい。
紫龍に説明を受けると、瞬は突然不機嫌そうな顔になり、口をへの字に引き結んだ。
そして、無言のまま大量のタマネギをフライパンの中にぶちまけて、まるで親のカタキに向けるような目をして、みじん切りのタマネギを炒め始めたのである。
瞬にめつけられたタマネギがくたくたになると、瞬は今度はそこに調味料棚にあった香辛料を手当たり次第に投げ込み始めた。
ガラムマサラ、カー、クミン、クローブ、ターメリック、白コショウに黒コショウ――瞬は、次々に香辛料の壜を空にしていき、最後には、一般的にはカレーには使わないであろうマスタードに唐辛子までをフライパンの中に投入していく。

それは異様な光景だった。
光景だけではない。
厨房に漂う匂いも、かなり異様なことになっていた。
だが、絶対零度の殺気を帯びた氷河よりも瞬が恐い紫龍は、到底 彼に意見することなどできない。
紫龍は、地獄の色と匂いを持つ恐怖から目を背けるようにして、ジャガイモの皮を剥き、ニンジンの上皮をこそげ落とし、彼が知り得る限りで最も一般的なカレーを作るべく、相努めたのだった。
――が。

紫龍がどれほど一般的かつ常識的なカレーを作ろうとして骨を折ったところで、それらの食材は、瞬が作ったカレーペーストの中に投入されるのである。
苦闘2時間の末にできあがった本格的エチオピア風カレーは、不気味かつ不吉な色と匂いをたたえた、壮絶としか言いようのないものだった。






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