ところで紫龍は、瞬の推察に反して、もう幾日も前から、そして腹の底から、泣きたい気分でいたのである。
自分自身は何も悪いことをしていないというのに――良いこともしていないが――理不尽に氷河に憎まれ、恨まれ、まるで針のムシロの上で寝起きしているような日々を強いられているのだ。
実際に涙を流すことはなくても、紫龍は心の中では呻吟し続けていた。

アテナの聖闘士たちが打ち続く闘いの日々に耐えることができるのは、その闘いの中で 心は安らいでいるからなのである。
アテナに対しても、仲間に対しても、自らが闘う理由に関しても、揺らぐことのない信頼を抱いているからなのだ。
闘いのない平和な日々の中ででも、心が安らいでいられないのなら、それは闘いのない日々よりも過酷であり、尋常でないストレスを生む。
その上、氷河の不機嫌は日を追うごとに増幅していく。
瞬を責めることができない分、氷河の怒りと憎しみは、ただ紫龍ひとりのみに向けられていた。

「なぜ、瞬はおまえにばかり構うんだ」
「俺が頼んだわけじゃないぞ……!」
言い訳をするにも、ついつい腰が引ける。
というより、何を言ったところで、氷河の中では悪いのは瞬以外の誰かということになっているのだから、紫龍にできることはただ、これ以上氷河を刺激しないことだけだったのだ。

「瞬の方から働きかけられたのだとしても、遠慮するのが人の道というものだろう! 貴様は、少しでも俺の立場を考えたことがあるのかっ!」
「おまえの立場と言われても――」
氷河は偉そうにそう言うが、現在の氷河の公式の立場は“瞬の仲間”というものであり、それ以上でもそれ以下でもない。
氷河は瞬に、好きだと告げてもいなければ、手も足も出していないのだ。――今はまだ。

もちろん、紫龍は、そんな事実を氷河に告げる愚行を犯すようなことはしなかった。
触らぬ神に祟りなし。
既に祟り神になりつつある氷河の神経を更に逆撫でするようなことだけは、紫龍は避けたかったのである。
――が。

「紫龍、紫龍。今、G座のミニシアターに『フランダースの犬』の映画が来てるんだって。これを観て泣けなきゃ、人間じゃないってくらい感動的な映画なんだって。一緒に観に行こうよ!」
――ゲルマン伝説最大の英雄ジークフリートは、“恐れ”というものを知らぬがゆえに最強だった。
そして彼は、愛する女性に出会うことによって、生まれて初めて“恐れ”を知り、やがて、その恋のために我が身を滅ぼす。
瞬が青銅聖闘士最強なのは、もしかしたら“恐れ”を知らないジークフリートの強さと同じ理屈なのではないかと、紫龍はその時思ったのである。
自分がこれほど恐れている氷河の不機嫌というものを屁とも思っていないような言動を繰り返してくれる瞬に、紫龍は恐怖し、驚嘆し、そして瞑目した。
紫龍は、その時、自分が仲間に殺されることをすら覚悟したのである。
ところが。

「瞬、いい加減に、そんな奴に構うのはやめろっ!」
紫龍が、氷河の凍気を帯びた殺意によって殺されることを覚悟した その瞬間、氷河がその怒りを向けた相手は、紫龍ではなく瞬だった。
憤りが極まった氷河は、この不愉快な現状を打破するには、現実を――彼を不愉快にしているのは紫龍ではなく瞬なのだという現実を――直視するしかないということを、ついに認めるに至ったらしい。
愛ゆえに耐えていた堪忍袋の緒の切断を、ついに氷河は行なってしまったのである。

「氷河……?」
恐れ知らずの最強の英雄と思われた瞬は、実は恐れを知らないのではなく、ただただ氷河の不機嫌にも憤りにも全く気付いていなかっただけだったらしい。
ふいに浴びせかけられた氷河の怒声に、瞬はぽかんとした顔になった。






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