「車上荒らし退治?」 それはアテナの聖闘士の仕事だろうかと、沙織の話を聞いてた青銅聖闘士たちは 一様に訝った。 人類の粛清を企む神たち――とまでは高望みはしないが、アテナの聖闘士が闘う敵はせめて、多くの人々に害を為す独裁者や国際テロリスト等の組織、それが無理なら、最低ラインで強盗や営利誘拐犯程度のレベルは堅持していてほしいではないか。 それが車上荒らし退治とは。 しかも、沙織の説明によると、問題の車上荒らしはS宿の屋外駐車場を主なターゲットにした中高生のグループで、その犯罪の目的は“遊ぶ金欲しさ”という実に低次元のものであるらしい。 『そんなものを“退治”するために、俺たちは6年間もの間 つらい修行に耐えてきたのではない!』と、アテナの聖闘士たちが憤ったのも当然のことである。 というより、彼等はアテナの命令に いたくプライドを傷付けられたのだった。 「俺たちに、そんな低レベルな奴等の相手をしろってのかよ!」 他の青銅聖闘士たちが女神に対する一応の遠慮を見せて沈黙を守る中、星矢が憤然と 彼の女神に抗議の声をあげる。 知恵と戦いの女神アテナは――もとい、グラード財団総帥 城戸沙織は、そんな星矢に毅然とした態度を崩すことなく、厳しい顔で頷いた。 「グラード財団所有のノートパソコンが1台盗まれたのよ」 「ノートパソコンが1台? パソコン1台が1000台でも、グラードの財力を持ってすれば即座に代替のものを手配できるでしょう」 紫龍の至極尤もな発言に、だが、沙織はすぐに首を左右に振った。 「個人情報保護法というのを知っている? 盗まれたパソコンには、財団のメインコンピュータからダウンロードしたばかりの取引先企業の経営者たちに関する個人情報が、これでもかと言わんばかりに詰め込まれていたの」 個人情報保護法――それは先年4月に全面施行の運びとなった、国・地方公共団体 及び 体系的に整理された個人情報を5000件以上保有する企業に、その情報の適正な管理を義務づける法律である。 アテナの聖闘士たちには全く関わりのない法律で、無論、彼等はその内容も承知していなかった。 「盗まれたパソコン自体はパスワードをインプットしないと起動できないし、データファイルそのものにも二重のパスワード設定がされていたわ。外部媒体にデータをコピーすることのできない設定にもなっているし、そのへんのドロボーごときにはデータを取り出すことは不可能よ。でも、世の中には そういうデータを取り出す術に長けたプロというのが存在するのよね」 それは、アテナの聖闘士たちには関わりがなくても、グラード財団の総帥には非常に重大かつ重要な意味を持つ法律だった。 「個人情報保護法では、一定数以上の個人情報の流出が起こった場合、当人への連絡はもちろん、流出状況の外部への公表と主務大臣への報告が義務づけられているの。データ流出が確認されれば、ISMSやISOの認定だって取り消されるわ。当然、グラード財団のイメージは大幅ダウン。これは企業の信用問題に関わる重大事なのよ」 沙織がこの事態に尋常でない危機感を抱いているらしいことは、青銅聖闘士たちにも感じ取れた。 感じ取れはしたのだが、感じることと理解することは全くの別物である。 なにしろ、彼等の認識は、 「ISMSって何?」 「んー。インターナショナル・セイント・モビル・スーツの略とかかなー」 というレベルのものだったのだ。 「モビルスーツを操る国際的なセイントの資格を、グラード財団が後生大事に守っているとは考えにくいな」 瞬が問いを発し、星矢が勝手な推測を披露し、それを受けた紫龍が真顔で彼なりのコメントを発表する。 青銅聖闘士たちのふざけたやりとりに、沙織は眉を吊り上げた。 「グラード財団はモビルスーツなんて ふざけた商品は扱っていません! ISMSというのは、インフォメーション・セキュリティ・マネージメントシステムの略! 情報管理システムが確立している企業だけに与えられる認定資格よ。ISOは、インターナショナル・オーガニゼーション・フォー・スタンダーディゼーション。要するに、国際標準化機構。ISOが定めた環境マネジメントシステムの導入ができているかどうかの認定資格。この資格を取り消されるということは、その企業が情報管理の面で信頼ならない企業だと公言されることなのよ! つまり企業の信用の失墜を意味するの。真面目に考えてちょうだい。グラード財団の信頼失墜は、財団の運営にも影響を及ぼし、巡り巡ってあなたたちの生活費が激減することにだってなりかねないわよ! 明日からおやつ抜きになってもいいの、星矢!」 アテナの長広舌の内容はともかく その迫力が、アテナの聖闘士たちに事態の深刻さを伝えてくる。 少なくとも星矢は、何よりも沙織の発言の脅迫じみた最後の一文によって、今 自分がただならぬ危機に直面していることを、嫌というほど理解した。 「おやつ抜き〜 !? 」 星矢が、ほとんど悲鳴じみた情けない声を城戸邸のラウンジに響かせる。 顔面から血の気が引いた星矢を見て 微かに頷いた沙織は、かくして、決然と彼女の聖闘士たちに命令を下した。 「あの辺りの車上荒らしを すみやかに捕まえるのが、あなたたちに課せられた使命なのよ。盗まれたパソコンを取り戻し情報の未流出を確認できれば、財団の名誉は守られ、あなたたちはこれまで通りに遊び暮らしていられるというわけ」 「遊び暮らしている……?」 沙織の言葉は、青銅聖闘士たちには 大いに心外なものだった。 彼等は一応、いつ訪れることになるかわからない非常事態に備えて、常に心身を緊張させ自宅待機をしているつもりだったのだ。 が、彼等は沙織に反論することができなかった。 彼等が一般的に“労働”と見なされる行為を行なっていないにも関わらず、三食昼寝付き おやつ付きの優雅な生活を保障されているのは、城戸沙織の財力に負うものである。 それは、疑う余地のない事実なのだ。 この世には、スーパーマンやウルトラマン等、働きながら正義の味方をしている者たちは大勢いるというのに、である。 彼等の生活費の一切を出している沙織は、社会的にも私的な生活面でも、青銅聖闘士たちの絶対の支配者だったのだ。 「幸い、今日は金曜です。盗難の報告は月曜日まで入らなかったことにして、この週末内にパソコンを取り戻すことができれば、事件の公表は免れられるわ」 「で……でも、相手は一般人なんですよね? 聖闘士である僕たちが、そんな普通の人をどうこうするなんて――」 「一般人でも犯罪者よ。盗まれたパソコンには、企業間取引を円滑に行なうための各企業の経営者たちの個人情報が満載だったと言ったでしょう。住所・氏名・年齢・電話番号やメールアドレスは言うに及ばず、その性格や家庭の内情、資産情報から人脈から敵の有無まで、何もかもよ。瞬、住所氏名だけならともかく、あなたの携帯電話の番号や各種アドレス、カードナンバーやその期限等の情報が外部に洩れたらどうなると思って? あなたの個人情報を手に入れた者は、あなたになりすまして犯罪を犯すことだってできるのよ」 「……」 瞬が、沙織にそう言われ、口をつぐむ。 瞬とて、自分に責任のないことで前科者になることは、できれば避けたかった。 しかし、だからといって、地上の平和と安寧を守るために存在するアテナの聖闘士が、一般人を相手に立ち回るなどということができるものだろうか。 |