「事情はどうあれ、仮にもアテナの聖闘士が、そんな馬鹿なガキ共を相手にできるか。俺たちの力はそんなことのためにあるんじゃない」
瞬の 言葉にできない思いを察した氷河が、初めてまともに口を開く。
沙織は、彼女の部下の物分りの悪さに辟易したように、嘆息を一つ洩らした。
「氷河は、個人情報が外部に洩れることの深刻さがまだわかっていないようね」
言うなり彼女は、氷河の襟首を掴み上げ――もとい、掴んで引き下げ、当然の成り行きとして上体をかがめることになった氷河の耳許で低く囁いた。

「氷河。あなたがマザコンなことを今更世間に公表しようとは思わないけど、たとえばあなたが誰を好きでいるか、世界中の人たちに知られることになっても構わない?」
「……」
突然、あまりにも思いがけないことを言われてしまった氷河が、瞳を大きく見開く。
同時に彼はきつく唇を引き結んだ。

氷河の内には、なぜ沙織がそんなことを知っているのかという疑いは微塵も湧いてこなかったが――人より多くの情報を握っているからこそ、彼女は いついかなる時も強者なのだ――なぜ彼女がそんなことを言い出したのかが、彼には得心できなかったのである。
もっとも、氷河のその疑念はすぐに氷解することになった。
声をひそめたまま、彼女は氷河を脅迫してきたのだ。

「あなたが私の指示に従わない場合は、大変不本意だけど、その情報を世界中に公表することも考えさせてもらうわ。今は企業のみならず一般家庭にまでネット環境が整備拡充されているから、私が情報を流せば、世界中の人たちが瞬時に あなたの意中の人の名を知ることになるわよ。もちろん、当の本人も、その兄弟も」
「……沙織さん」
「もしそういう事態になったら、あなたのようにエキセントリックな男と関わるとろくなことにならないと、世界中の人たちが瞬に忠告することになるでしょうよ。一輝あたりは特に」
「……」

それは、氷河が最も恐れている事態だった。
他の誰に、その事実を知られても構わない。
だが、一輝だけは別である。
瞬に対して絶大な影響力を持っている瞬の兄にだけは、氷河は絶対にその事実を知られたくなかった。
氷河は、瞬の兄のいないところで、瞬の兄に知られぬうちに、事を進めていかなければ、自分の恋の成就が非常に困難なものであることを、誰よりもよく知っていたのだ。
それだけでなく――。
「瞬。私、とても興味深い話を聞いたのだけど、聞きたくない? 実は、氷河はね――」

それだけではなく、この件に関して、氷河には氷河の予定と計画というものがあった。
自分のこの神聖な思いが、他人の口から瞬に伝わることも不本意の極みだったが、それ以上に、恋の告白はやはり、それにふさわしい時と場所を選んで、ムーディかつ劇的に行ないたいではないか。
なにしろ、この恋は尋常の恋ではない。
氷河の恋する相手は、実に特殊な運命をその身に背負っている。
氷河の恋する相手は、あろうことか氷河と同性なのだ。
慎重の上にも慎重を重ねて事に当たらないと、その恋の告白は、最悪の場合、恋の成就どころか、恋する人の内に払拭できない嫌悪感を生み、生涯に渡る決裂を生じることにもなりかねないものなのだ。

そんな重大な情報を当人の許しを得ないまま他者に洩らすことは、それこそ個人情報保護法に思い切り反することなのではないかと、氷河は沙織に噛みついていきたかったのだが、そもそも脅迫という行為は法を超えたところで行われるものである。
つまり、沙織は、脅迫という卑劣な行為を、まさしく正道に沿って行なっているのだ。
その正しい脅迫を行なっているのが、“常軌を逸したエキセントリック”どころか、“人を超えたスーパーヒューマン”女神なのだから、所詮 人間にすぎない青銅聖闘士ごときに抵抗の術があるわけがない。

「車上荒らし退治でも 鬼が島の鬼退治でも ゴミ出しでも何でもするっ! 喜んで勤めさせていただきますっ!」
「まあ」
知恵と戦いの女神であるところのアテナが、氷河のその雄叫びを聞くや、にっこりと満面の笑みを浮かべる。
彼女は、そして、聖母のごとき慈愛をその眼差しにたたえ、氷河の決意を極めて大袈裟に称賛した。
「なんて素晴らしいの! それでこそ、私の聖闘士よ! 愛と正義を貫こうとするあなたの心意気に免じて、鬼退治のお供には瞬を付けてあげるわね――瞬」
「はい……?」
「瞬。あなたも氷河と一緒に鬼が島に車上荒らし退治に行きなさい。これはアテナの命令よ」
「……」

アテナの聖闘士に対してアテナの命令が絶対なのは、それが地上の平和と安寧につながるものであることを、アテナの聖闘士たちが信じているからである。
瞬は必死にそう・・信じようとした。






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