どちらにしても、翼が消えてしまった氷河王子は、翌朝になるまでこの高い塔から飛び立つことはできません。 二人は、その夜を、互いの事情を打ち明け合いながら過ごすことになったのです。 瞬王子は、自分以外の人間と全く接する機会がなかったわけではありませんでした。 瞬王子の衣食住の世話をしてくれる者はいましたし、国王である兄君も時間を見付けては瞬王子の許を訪ねてきてくれていました。 ですが、兄君は なにしろ忙しい身、瞬王子と何時間もゆったり語らっていることはできません。 瞬王子の世話人たちも 全員が瞬王子の恋の相手になり得ないような老人ばかりで、その上、瞬王子に不要な知識を与えることがないようにと、必要以上の会話を禁じられていました。 同年代の人間と語らうなんて(氷河王子は瞬王子より数歳年上でしたが)、この塔に閉じ込められて以来4年振りのこと。 瞬王子の舌が ついなめらかになってしまったのは当然のことだったでしょう。 「恋ってどんなものなのか、僕は知らない。知らないんだから、できるわけないのに……」 それでも瞬王子は、『この塔を出たい』と言葉にすることはしませんでした。 兄君が不運な弟を不幸にしないために心を砕いてくれていることは知っていましたし、自分が不幸になることは兄君をも不幸にすることだと わかっていましたから。 そして氷河王子も――瞬王子の幸不幸がかかっているとあっては、いつもの調子で無責任なことは言えなかったのです。 「不幸がどんなものなのかは知っているのか」 「うん……」 恋を知らないという瞬王子に氷河王子が尋ねますと、瞬王子は、まるで項垂れるように頷きました。 そして、力無い声で、瞬王子の知っている“不幸”を語ったのです。 「お母様が死んだとき、今日限りお母様には二度と会えないと言われたの。もう二度と名前を呼んでもらうこともできないし、キスしてもらうこともできないって。悲しくて悲しくて胸が潰れてしまいそうだった。不幸っていうのは、多分、ああいう気持ちになることをいうんだと思うの。大好きな人に会えなくなってしまったら、それが不幸――」 話しているうちに、その時の悲しい気持ちを思い出してしまったのでしょう。 瞬王子の瞳には涙がにじんできてしまったのです。 自分の涙に気付くと、瞬王子はすぐに手の甲でその涙を拭い去りました。 「瞬……」 氷河王子も大切な母君を亡くしていましたからね。 瞬王子の悲しみは、我がことのように氷河王子の胸に迫ってきたのです。 自分を心から愛してくれていると何の疑いもなく信じることのできる人、自分自身も大好きでたまらなかった人を失うことは、本当につらく苦しく、自分自身が生きて存在することが不安に感じられてしまうくらい恐ろしいことです。 二人の王子様は、同じ悲しみを知っていました。 だから――。 「かわいそうに」 呟くようにそう言って、氷河王子は瞬王子の肩を引き寄せ、その胸に抱きしめたのです。 ちなみに、氷河王子はまだ裸でした。 (え……?) 瞬王子が驚いたのは、けれど、自分の頬が氷河王子の裸の胸に押し当てられることになったからではなく、氷河王子が口にした言葉のせいでした。 「どうせここには俺しかいないんだし、いくら泣いてもいいんだぞ」 「氷河……」 氷河王子にそう言われて、瞬王子はなぜか急に 心と身体が軽くなったような気がしたのです。 瞬王子は、人にそんなことを言われたのは初めてでした。 瞬王子のお母様が亡くなった時、瞬王子の周囲の人々は誰もが、 「挫けないで、強く生きて」 と言って、瞬王子を励ましてくれました。 兄君は特に、自分の悲しみをこらえて、自分より幼くして母を亡くした瞬王子を力付けようとしてくれたのです。 瞬王子は、もちろん彼等の励ましを とても嬉しく思いました。 彼等が、母を失った哀れな者のためにそう言ってくれていることもわかっていました。 でも彼等にそう言われるせいで、瞬王子は母君の死を悲しむことができなくなってしまったのです。 自分が悲しむことで彼等を悲しませないように、瞬王子は皆の前で懸命に笑顔を作りました。 そして、夜には自室のベッドで一人で泣き続けました。 父君が亡くなった時も同じでした。 「かわいそうに」と言われたのも「泣いていい」と言ってもらえたのも、これが初めてのことだったのです。 「氷河もお母さんがいないんだよね……」 瞬王子より年上で、身体も大きくて、瞬王子よりずっと立派なものを常備している氷河王子も、お母様を亡くした時には深い悲しみに打ちひしがれたのでしょうか。 今の氷河王子からは想像できませんでしたが、きっとそうだったに違いありません。 瞬王子には 氷河王子の優しさと同情がとても心地良く感じられ、でも、だからこそ泣いてはいけないような気持ちになったのです。 自分の涙で、氷河王子に悲しい出来事を思い出させるわけにはいきませんからね。 ごしごしと涙をふいて、瞬王子は氷河王子のために頑張って笑顔を作りました。 「だから、僕が誰かに恋っていうのをしたら、その人が死んじゃうんじゃないかと思うの。僕の不幸って、そういうものなのだと思うの。だから、僕はここにいるの。外には出たいけど、でも、僕のせいで誰かを死なすようなことはできないでしょう?」 塔の外に出たいと願うあまり 忘れかけていた決意を思い出し、瞬王子はきつく唇を引き結びました。 それは決して忘れてはいけないことでした。 この塔の部屋に初めて足を踏み入れた時、決して忘れないようにと、自分自身に戒めたことでした。 人は、一人では幸福にはなれませんが、一人では不幸にもならないもの。 自分の不幸は、自分を愛してくれている人たちにも不幸を招くもの。 だから、瞬王子は、絶対に不幸にはなれなかったのです。 |