瞬はその夜、ひとり自室で まんじりともせずに朝までの時間を過ごした。

『初めてじゃないんだろう?』
と、氷河は当然のことのように言っていたが、瞬は、実は、全く完全に“初めて”だった。
相手が女性であれ男性であれ、性行為どころかキスをしたこともない。
もとい、唇と唇を触れ合わせるだけのキスなら、一度だけ経験があった。

1ヶ月前、サンルームの籐椅子でうとうとしていた時、瞬は初めてキスというものを経験した。
ほぼ意識のない時のことだったので、それは唇が触れ合っただけの ごく軽いキスだった。
自分の唇に何かが触れる感触に気付いて目を開けると、瞬のすぐ目の前に氷河の顔があったのだ。
驚いて目をしばたたかせた瞬に、氷河は、
「おまえを目覚めさせようと思って」
と、どこかの王子様のようなことを言って笑った。
瞬は、彼の言動に戸惑いつつも悪い気はせず――むしろ、恥ずかしいほど嬉しかった。
それから瞬は、白雪姫を目覚めさせた王子が白雪姫と結ばれるのは物語的必然とでもいうかのように、氷河を自分にとって特別な存在だと認めるようになったのである。

それが、恋情を基盤においたスキンシップの、瞬が過去に経験した最高レベルのものだった。
その後も、氷河は時折 瞬を抱きしめることはあったが――その時に髪に口付けるくらいのことはしたが――そこから先に進むことはなかった。
瞬は、二人がそんなふうでいることに物足りなささえ覚えていたのである。
それが今日、互いの気持ちを確かめ合うには十分な時間を経たと言わんばかりに突然に、瞬は氷河に共に夜を過ごすことを求められたのだ。

瞬は拒絶できなかった。
そもそも拒む理由が思いつかなかった。
確かに瞬は氷河が好きで、彼の望みを叶えたいと思っていた。
そうすることで氷河とより親密になりたいという気持ちもあった。
しかし、それは、氷河が彼の恋人がその件に関して全くの初心者だということを認識しており、その事実にふさわしいレベルの期待をしか抱いていない場合の話である。
だが、残念ながら氷河は、瞬を熟練した恋人だと――少なくとも それなりの経験を積んだ恋人だと思っているらしい――思っていたのだ。

未経験という経験をしか有していない今の状態で 氷河とその行為に及べば、自分の無知と未熟が氷河を失望させることは、火を見るより明らかだった。
今の瞬は、掃除や洗濯しかしたことのなかったシンデレラ姫が、突然お城の舞踏会に行って、王子にダンスを申し込まれたようなものだったのだ。
瞬はダンスの仕方など知らない。知るはずもない。
しかし、それを常識のように身につけている王子には、そんな常識を知らない人間が存在するということ自体が想像を絶しているのだ。
王子に誘われたことに有頂天になって その手を取れば、灰かぶり姫は王子の足を踏むばかりで、結果として王子の幻滅を誘うことになるに違いない。

瞬は、それだけは避けたかった。
だが、そのためにはどうすればいいのかがわからない。
考えに考えて考え抜き、一晩考え続けても、瞬には良い解決策が思いつかなかった。
それは、氷河に幻滅されたくないからといって、氷河以外の誰かに手ほどきを乞うことができるようなことではない。
『行政書士資格取得』から『ボールペン字』、『ラブリーイラスト』から『花のねんど手芸』まで、無いコースは無いと言われる通信講座コースにも、『初めてのえっち』コースがあるとは思えなかった。






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