一晩悩み続けることで、瞬が得ることのできた結論は、『これは自分一人の思案で解決に至れるような簡単な問題ではない』というものだった。
誰か――もちろん、それは氷河以外の誰かでなければならない――に相談し、助言のひとつでももらわないことには、出口の見えないこの闇から逃れ出ることは不可能である、という結論に、瞬は至ったのである。
が、瞬が相談事のできる相手の選択肢は非常に限られていた。

『限られている』どころか、瞬が相談事をもちかることのできる相手は、星矢と紫龍しかいなかった。
まさか、畏れ多くも処女神アテナに この手の相談事を持ちかけるわけにはいかない。
そういうわけで瞬は、とりあえず より歳の近い星矢を頼ってみることにしたのである。――が。

「星矢、あの……」
翌日、辺りに氷河の姿がないことを確認して、少なからぬ気後れを自覚しつつ、瞬が星矢に相談を持ちかけようとした、まさにその時。突然、星矢はラウンジに大きな声を響かせた。
「瞬、これ見てみろよ! 今時のガキって腹が立つくらいマセてやがるー!」
「え?」
出鼻を挫かれて戸惑うことになった瞬の目の前に、星矢は一冊の薄い冊子を突きつけてきた。
それはどうやら、とある団体が行なったアンケートの結果をまとめたものらしく、表紙には『今時の日本のセクソロジー・アンケート』なる文字が、品のない赤色で印刷されていた。
その中の とあるアンケートとその結果が、星矢を憤慨させることになったらしい。

「日本の10代未満の男子の性体験ありの割合が5.3パーセントだってよ。10代未満つったら、小学生だぜ。まだ算数や図工なんてのをやってて、数学も美術も習ってないお子サマ! そんなガキ共が一丁前によ! 昭和生まれの識者が嘆いてる」
「……」
星矢が告げた言葉の意味を、瞬はにわかには理解できなかった。
そして、理解できた瞬間に、瞬は絶句した。
10代未満の男子の5.3パーセント――それは、色々な意味で、瞬には衝撃的な数字だった。
あまりに衝撃が大きすぎて、そのアンケートの内容が信頼できるものなのかどうかを確認することにさえ、瞬は思い及ばなかった。
その衝撃に、星矢が追い討ちをかけてくる。

「俺なんかさあ、ちゃんとしたキスだって、ギリシャ行って1年以上 経ってから初めて経験したんだぜ。日本にいたら、今だってそんなの未経験だったはずなんだ。なのに何だよ、このガキ共!」
「あ、え、そ……そうだね、な……なんだか、なんだかだね」
返す言葉に窮した瞬は、答えた瞬自身ですら全く意味を為していないとわかる言葉を並べて、星矢に相槌を打った。
星矢は、もっと盛大かつ力強い批判の声を瞬に期待していたらしく、是認なのか否認なのかわからない瞬の返答を聞いて、気の抜けた顔になった。
それから、気を取り直したように瞬に尋ねてくる。

「あ、何か話あったのか?」
「ううん、大したことじゃないから……」
左右に幾度も小さく首を振って、瞬は茶を濁したのである。
その手の相談事を星矢に持ちかけることは、ためらわれた――特に今は、ためらわれた。
少なくとも 星矢は“ちゃんとした”キスは経験済みらしい。
ラテン系の国に修行に行った星矢に、その先の経験がないとは考えにくい。
かの国の恋愛経験に富んだ女性陣には、星矢のように物怖じを知らない明朗快活な少年は、色々教えてやりたいタイプのオトコのコであったに違いないとも思う。

ともかく、ちゃんとしたキスも知らない子供は ここには自分ひとりしかいない――ということは、厳然たる事実であるらしい。
城戸邸の庭で一緒にかくれんぼをして遊んだ仲間たちが、自分ひとりだけを残して いつのまにか“大人”になってしまっていることに、瞬は軽い目眩いを覚えた。

相談するなら もちろん先達の方がいいと、瞬は思っていた。
しかし、こんな話題のすぐあとで、小学生でも知っていることについての相談を星矢に持ちかけていくことなどできるものだろうか。
星矢は、最終的には真面目に相談に乗ってくれるかもしれないが、その前に彼の仲間の未経験者が彼に思い切り笑い飛ばされることは火を見るより明らかである。
なにしろそれは、学校で数学や美術を学んだことのない子供ですら知っているレベルの一般常識であるらしいのだ。

瞬は結局、星矢に相談することは諦めた。
となると、瞬が頼ることができるのは、選択肢のもう一方――紫龍しかいない。
星矢ですら知っていることを自分が知らなかったという現実には かなりの落胆を覚えたが、彼に相談を持ちかける前にその事実がわかったことは不幸中の幸いだったと、瞬は思うことにしたのである。
星矢と違って紫龍は、仲間の無知を笑い飛ばしたりはすまい――。

瞬がそんなふうに自分自身を慰め終えた時、折りよく紫龍がラウンジにやってきた。
瞬に時間はあまり与えられていない。
早速 紫龍の許に駆け寄っていった瞬は、だがすぐに、自分が今ここで彼に相談を持ちかけていくことは不可能なことだという事実に気付くことになった。
氷河の気配が、瞬たちのいる場所に近付いてきていたのだ。

紫龍にやや遅れて、氷河がラウンジの中に入ってくる。
瞬の心臓は跳ね上がったが、氷河は、瞬の姿を認めても特にいつもと違う様子は見せなかった。
機嫌が良いようにも見えないが、特に悪いふうでもない。
氷河は、昨夜のことはあまり気にしていないようだった。

氷河にはわからぬように安堵の息を洩らし、瞬は決意を新たにしたのである。
氷河には絶対に自分の非常識がばれないようにしなければならない――と。
小学生でも知っているようなことを知らない人間を、氷河が、彼の恋の相手として認めてくれるとは、瞬にはどうしても思えなかった。
“一度は性行為に及ぼうとした相手”から“そんな行為の相手にはならないお子様”に格下げされることだけは――そんな悲しい事態を招くことだけは――避けなければならない。
氷河の前では何が何でも“知っている振り”を貫くことを、瞬はその胸に誓ったのである。






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