「渋い顔だな」
瞬の姿が消えてしまった部屋で、半分からかうように、そして、残りの半分は同情したように、氷河にそう告げたのは紫龍だった。
氷河が仲間に何らかの反応を示す前に、星矢が――こちらは、同情半分、驚愕半分の様相で、顎をしゃくってみせる。
「そりゃ、渋い顔にもなるだろ。俺だって、びっくりした。冗談のつもりだったのに……こういうの、冗談からコマって言うんだっけ?」
星矢がその誤用を本気でしでかしているのか、あるいは一応冗談のつもりなのかを、氷河は確認する気にもならなかったのである。

「瞬には瞬の都合というものがあるんだ。おまえのために、恋も知らないお子様でいてくれるわけもない」
「わかっている……!」
自分が自分であり、仲間が仲間であり、世の中が世の中である。
現代日本は 処女童貞が尊ばれていた中世キリスト教世界ではないのだ。
氷河自身、そんなものに価値を感じたことは かつて一度もなかった。
しかし、それが瞬のこととなれば話は別である――話は別だった。

余人はいざ知らず瞬ならば、白百合の純潔と野に咲くすみれの恥じらいと秘めやかさを、初恋の相手のために守っていてくれるのではないかと、氷河は期待してしまっていた。
期待することは間違っていると自身に言い聞かせつつ、氷河はそれでも期待してしまっていたのだ。
瞬の初恋の相手が自分なのかどうかということさえ知らないでいる というのに。
『初めてじゃないんだろう?』
期待が裏切られても落胆しないように、自戒のつもりで瞬にそう尋ねた時も、氷河は心のどこかで瞬の否定を願っていたのだ。

期待を裏切られたからといって、もちろん氷河は瞬を嫌うことはできなかった。
瞬を好きだと感じる心は、過去に瞬を我がものにした者たちへの嫉妬も相まって、むしろ いや増しに増していくばかりだった。
それでも――それが身勝手な期待だったにせよ――氷河の期待が裏切られたことだけは、紛う方なき事実だった。






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