瞬がきっぱりと断らなかったことが、氷河は不愉快だったらしい。 断るべきだったことがわかっているだけに 氷河と顔を合わせづらく、その客人が帰ってからずっと、瞬は何気なさを装って氷河を避け続けていた。 自分でも姑息だと思いつつ、その日 瞬が再び氷河とまともに対峙したのは、夜になってからだった。 いつもの通り――いつもより気後れしながら――瞬は氷河の部屋に足を運んだ。 氷河の不機嫌を承知の上で、それでも瞬が彼の部屋に赴いたのは――赴けたのは――、夜の氷河が昼間の氷河より自分に甘くなることを知っていたから、である。 氷河に何事かを言われる前に、瞬は 氷河より先に彼のベッドに腰をおろし、歩み寄ってきた氷河に抱きしめられるより先に、自分から彼の背に腕をまわしていった。 とにかく氷河に何か言われるのが恐くて、キスも自分の方からしていった。 氷河が自分の身体に身体を重ねてくれてから、やっと安心して、瞬は氷河に尋ねてみたのである。 「氷河は、マーマや先生に会いたくないの?」 ――と。 「氷河だってエイトセンシズには目覚めてる。その気になったら、氷河は――」 その気になったら、氷河は会いたい人たちに会えるのだ。会いたいという気持ちがあるのなら。 そして、会いたいという気持ちがあるのなら、亡くなった母に会って詫びたいと望むあの男性の気持ちもわかるはずだった。 氷河ほど彼の気持ちがわかる人間は、(少なくともアテナの聖闘士の中には)いないだろう――。 氷河は、すぐには瞬が尋ねたことに答えを返してよこさなかった。 彼は、瞬に触れていた上体を起こし、ベッドに横になっている瞬の顔を覗き込み、それから瞬の上からどいてしまった。 裸体を、氷河ではなく空気に愛撫されることになった瞬は、尋常でなく いたたまれない気持ちになったのである。 ひどい意地悪だと思うと同時に、それほどに氷河の立腹が穏やかでないことに遅ればせながらに気付いて、瞬は自分の優柔不断を悔やんだ。 しかし、氷河はお仕置きのためにそうしたのではなかったらしく――、すぐに その手を瞬の胸の上に伸ばしてきた。 そのまま瞬の身体を撫でながら、彼は、 「オルフェが冥界に行ったのはなぜだと思う?」 と、逆に瞬に問い返してきた。 「それは――ユリティースを愛していたからでしょう?」 てっきり あの客人の話が出ると思っていたので、氷河のその問いかけに、瞬は少々気が抜けてしまったのである。 とりあえず、問われたことに答える。 それは、答えを導き出すのに長い時間を要するような難問ではなかった。 それ以外の理由が、瞬は思いつかなかったし、あるはずもないと思った。 「だとしても、大抵の人間は諦める。聖闘士でも――普通は諦めるだろう」 「……」 それはそうである。 愛する者の死に出合った時、大抵の人間は、その死を嘆き悲しんだあとに、自分自身の生を見詰めることをする。 その死を悲しみはするが、死んだ者を生き返らせたいと考える者は少なく、霊能者などの力によって再会を果たそうなどと考える者は 更に少ない。 ではなぜオルフェは“大抵の人間”と同じように彼女の死を受け入れてしまうことができなかったのか――。 彼が“大抵の人間”より愛情深かったのだと考えることは、瞬にはできなかった。 その考えは、“大抵の人間”への侮辱になる。 「オルフェが冥界に行ったのは、ユリティースに再会できれば、自分がもっと幸福になれると思ったからだ。オルフェはもちろん、ユリティースが生きていた時には幸福だったろう。だが、その幸福の絶頂に自分はまだ至っていないと思ったから――少なくとも、そう感じたから、奴は冥界に行くしかなかったんだ。奴は まだ愛し足りなかったから。愛され足りていないとも感じていたから。自分はまだ完全な幸福を知らない、完全な幸福に至っていない、だから、もっともっと幸福になりたい。その思いが、奴を冥界に向かわせた」 氷河が何を言わんとしているのか、瞬にはわかるようでわからなかった。 氷河の手が瞬の脚を犯し始める。 瞬は、彼の手の平の感触に喘ぎ、身悶えた。 「俺も、もちろん亡くなった人たちには会いたい。だが、そんなことをしている暇があったら、もっとおまえと してはならないことをしようとしている仲間をいさめるために、氷河はいつもと違う愛撫を 彼の優柔不断な恋人に加えているのかと、瞬は思っていたのだが、実はそうではなかったらしい。 彼の愛撫は まさに愛撫のための愛撫、生きている者を愛撫するための愛撫で、それは実に効果的に瞬を刺激した。 氷河にもっと触れられたいと、瞬の心と身体が焦れ始めていた。 死んでしまった人たちより、今は氷河が欲しい。 切実に、瞬は氷河が欲しかった。 失った時を取り戻せてしまったなら、人はどれほど怠惰で緊張感のない人生を送るようになることだろう――と、心と身体の両方を これ以上ないほど緊張させて、瞬は思ったのである。 人間には後悔という経験が必要なのだ。 二度と同じ過ちを繰り返さないために。 今、少しでも強く長く熱く深く氷河に触れてもらえなければ、それは瞬の中に後悔を生み、もし近い将来に氷河が死を得るようなことがあった時、その後悔は、オルフェのように瞬にも氷河の後を追わせることになるだろう。 そんなことを、氷河は望んでいないのだ。 瞬が死んだ者を追うことも、彼自身が死んだ者を追うことも。 「ご……ごめんなさい」 「わかればいい」 氷河は、瞬に意地悪をするつもりはもちろん、焦らすつもりも全くなかったらしい。 瞬が自分の非を認めると、すぐに再び身体を重ねてきた。 そして時を置かずに、そのまま瞬の中に侵入してくる。 喘ぎと悲鳴の混じったような声で彼を受けとめ、つまらぬ後悔をせずに済むように、瞬は精一杯氷河を抱きしめ、でき得る限り深く氷河を身の内に取り込むために、強く彼に絡みついていった。 闘いの場でのことに限らず、氷河と瞬にも、数多くの後悔がその心の底には たゆたっていた。 失われてしまったものを取り戻したいと願うのは、人間だからこそのことなのだろう。 苦い味のする その後悔というものを、どう活かすかで、人の生きる姿勢は決まる。 一つの後悔を知り、同じ後悔を味わいたくないと願うなら、同じ過ちを繰り返さずに“生きる”しかないのだ。失われた時や死んでしまった者を取り戻そうなどとは考えずに。 他のことならいざ知らず氷河とのことでは、瞬はオルフェと同じ過ちを犯したくはなかった。 「ああ……っ!」 氷河も、瞬と同じことを願っているらしい。 おそらくは冥界での闘いの時以降ずっと、あるいは、初めて瞬への好意を意識した時からずっと、氷河はその願いを心に留め続けていたのかもしれない。 その夜もいつもと同じように、彼は情熱的だった。 |