数日後の月曜日、だが、彼はまた城戸邸にやってきたのである。 「また来たのか」 氷河は今日はもはや不機嫌を隠さなかった。 客人を客間にあげようともせずエントランスホールに立たせたまま、意識して軽蔑の色を表情に乗せて、未練がましい男を下目使いに しかし、彼は氷河の不機嫌に気後れした様子もなく、むしろ逆に気負い込んで、氷河の陰に隠れるように立っていた瞬に尋ねてきたのである。 「私のために何かしてくださったんではないんですか?」 「え?」 彼が何を言っているのかがわからず、瞬は2、3度瞬きをした。 瞬の返答を待たずに、歓迎されていない客人が、彼の身の上に降ってきた出来事を語り始める。 「昨日、庭の手入れをしていたら、もうすぐ2歳になる娘が庭に下りてきて、妙に大人びた顔で、『おまえの幸せを祈ってるよ』と私に向かって言ったんです。まだ舌足らずの子なんですが、昨日は妙にはっきりとした口調で、聞き返すと自分が何を言ったのかも憶えていない様子で――あれは母の口調だった……」 一度言葉にしてしまうと、彼は自身の興奮を落ち着かせることができたらしい。 その口調は、最後には、しんみりと噛みしめるようなものに変化していた。 客人の報告を聞いた氷河が、おもむろに眉根を寄せ、疑うような目で隣りに立つ瞬を見おろす。 瞬は氷河の疑いに気付き、慌てて小さく幾度も首を横に振った。 「僕、何もしてない! ほんとに何もしてないよ……!」 「……」 氷河はそれでも、しばらく半分睨むような視線を瞬の上に据えていたのだが、やがて瞬が嘘を言っていないことを確信できたらしく、その瞳から力を抜いた。 が、瞬が何もしていないとなると、客人が出合った事象に説明がつかない。 得心できないまま、氷河はその視線を再度客人の方に巡らすことになった。 氷河には合点のいかないことが、しかし、瞬と客人には不思議なことでも何でもなかった――のである。 「きっと、お母様が見守っていてくれたんですね。お母様はちゃんとわかってくれてたんだ」 瞬が客人にそう言うと、彼は一瞬の躊躇も見せずに、嬉しそうに瞬に頷いた。 「ええ。ええ、そうなんだと思うんです。そうだったんです、きっと」 彼が三度目に瞬の許を訪れたのは、瞬が“何か”してくれたのかどうかを尋ねるためではなく、むしろ何もしていないことを確かめるためだったに違いない。 確かめたいことを確かめ終えると、彼は、“何もしていない”瞬に幾度も礼を言って、彼の家族の許に帰っていった。 彼の、数日前のそれとは全く様子の違う後ろ姿が、氷河を不快にした。 「氷河?」 いかにも機嫌を悪くしている氷河の瞳の色に気付いた瞬が、その名を呼ぶ。 瞬には、氷河の仏頂面の理由がわからなかったのである。 それが実際に亡くなった人の言葉であったにせよ、あるいは彼の願望が高じたことによる錯覚であったにせよ、第三者の余計な介入なしに あの男性は心の安寧を取り戻すことができたのだ。 良いことしか起きていないのに、氷河は何を立腹しているのかと、瞬は氷河の態度を訝った。 城戸邸の大仰な造りの玄関のドアに背を向けた氷河が、突然 虚空に噛みつくように言葉を吐き出す。 「――この不公平はいったい何だ。俺のところには来てくれないのに」 それは瞬の問いかけに答えた返事ではなく、苛立ちが言わせた独り言のようだった。 “不公平”そのものへの苛立ちではない。 『生きている者は、死んでしまった者への後悔の埋め合わせを考えるより、生きている者との時間を大切にすべきだ』――人には偉そうなことを言っておきながら、その“不公平”に不満を抱く自分自身に、氷河は腹が立っているらしい。 人間というものは、なかなか理屈では割り切れないようにできているものである。 「氷河は氷河のマーマが好きで、氷河のマーマはそれを知ってる。氷河のマーマは氷河を愛していて、氷河はそれを知ってる。改めて伝えることがないからでしょう。不公平じゃなく、不必要なことが起きないだけだよ」 子供のように拗ねている氷河にそう言いながら、瞬は心のどこかで ほっと安堵の息を洩らしてもいたのである。 昨日までは自分だけが氷河に教え 氷河と自分はお互いに未熟な人間である。そんな二人が互いを支え合って生きていくことが、とても微笑ましいことのように、瞬には思えたのだ。 今夜は自分が氷河をなだめ慰めてやらなければ――と考えて、瞬は、氷河に見咎められないように こっそり微笑した。 |