「へ……?」
寝耳に水とは、このことだ。
俺は、間の抜けた声をあげた。
連絡も入れずに家に押しかけられるだけでも十分に無作法であつかましいっていうのに、瞬のそれは、俺の意向伺いではなく、提案でもなく、決定事項の報告だった。
その図々しさに半ば呆然としている俺の前で、瞬は首をかしげ、
「『お兄ちゃん』の方がいいかな」
と呟いた。

俺がヘンタイで、俺を『お兄ちゃん』と呼ぶ人物が俺とは血のつながりのない“妹”だったなら、これは諸手をあげて歓迎すべき おいしい状況だったかもしれない。
しかし、俺の目の前にいるのは、『可愛い妹』なんて概念を超えた『可愛いオトウト』だった。
詐欺だろう、これに俺と同じものがついてるなんて! ――と叫ばずにはいられないほど。
俺はかろうじて叫びはしなかったが、叫んでいても事態に変わりはなかっただろう。
瞬は俺の意向を確かめもせずに、勝手に話を進めていった。
いや、話を進める部分をすら飛び越えて、済んだ仕事の報告をしてきた。

「えーと、2階のお兄ちゃんの部屋の隣りの部屋が空いてるって、お母さんが言ってたので、僕の部屋にしました。お母さん、本当は、1階の元のお母さんの部屋を使っていいって言ってくれたんですけどね。ライティング・デスクだけ、お母さんが使っていたものを僕の部屋に運ばせてもらいました」
俺のマーマを気安く『お母さん、お母さん』と連呼する この弟は、俺が晩飯を食っている間に、すっかりこの家に居坐る準備を終えてしまっていたらしい。
こんなこそ泥が我が家に入り込んでいると知っていたら、俺はもっと早く家に帰ってきて、この暴挙を食い止めていたのに!

「当座の着替えと教科書だけ持ってきました。足りないものは週末に取ってきます」
図々しいこそ泥は、本気らしい。
本気でこの家で暮らし、この家から学校に通うつもりでいるらしかった。
「おまえ、どこの中学なんだ」
ここで こそ泥の言いなりになってしまうわけにはいかないと自分を励ましながら、俺は瞬に尋ねた。
俺は瞬の歳も通っている学校も知らないが、それが瞬との同居を拒むいい理由になってくれるんじゃないかと思ったんだ。
瞬が義務教育中なら親の保護下にいるべきだし、学校が遠いのなら それもまたよろしくない。

ところが瞬は、俺の期待に反して――俺がヘンタイだったなら狂喜乱舞するような拗ねた仕草で――俺を上目使いに見あげ、そして言った。
「失礼なこと言わないでください。僕、お兄ちゃんの後輩です。高校1年。あの有名な氷河さんが僕のお兄様になってくれるって聞いて、僕、すごく嬉しかったんだから」

俺がどう有名なのかは俺の知ったことじゃないが、俺の呼び名くらい統一してほしい。
それはともかく、俺の呼び名が統一されていない瞬のその発言で、『通学が大変になる』という理由で瞬との同居を拒むことはできないという事実を、俺は知った。
俺の通う高校は、ここから徒歩10分のところにある。
しかし、このでかい目の持ち主が高校生とは!

まあ、もっとも、俺が瞬を追い出す うまい口実を見付け出せていたとしても、俺は瞬を瞬の家族に引き取ってもらう術を持っていなかったんだが。
俺は、瞬の家の連絡先を知らない。
マーマから電話が入るたびに、俺はその受信記録を即行で消していた。
意地もあったが、それより何より、母親恋しさに負け、俺からマーマを奪っていった憎い男の家に連絡を入れてしまいそうな自分を抑えるために。
そして今、それがアダになった――というわけだ。
マーマの新居の住所は知っていたが、手紙を出してその返信を待っていたら、瞬を引き取ってもらえるまでに何日かかることか。

無論、俺には今すぐ瞬をこの家から追い出すこともできた。
しかし、時刻は既に夜といえる時刻。その上、昨今の世の中は物騒だ。
こんな可愛い子を一人で外に出すのは危険きわまりない――と俺は思った。
俺の拒絶に合って落胆した瞬がしょんぼり肩を落としながら夜道を歩いていたら、ホンモノのヘンタイ野郎の1人や2人が湧いて出ても不思議じゃないだろう。
瞬の見るからに非力で可愛らしい様子を、俺は卑怯だと思った。
これがいかにも屈強で可愛げのないオトコだったなら、深夜の繁華街にだって 安心して放り出してしまえるのに。

そんな俺の苦衷と憤りも知らず、瞬はノンキそのものだった。
「もしかして、夕ご飯食べてきちゃったんですか? 一緒に食べたかったのに」
とか何とか言いながら、すっかり この家での生活という作業にとりかかり始めている。
「知るか! 俺はおまえとの同居を認めたわけじゃない!」
「でも、お母さんはいいって」
「やかましいっ! ここは俺の家だ!」

俺は頭に血がのぼっていた。
春の陽だまりのようにのんびりした瞬の顔を見ていると、ますます頭にのぼる血量が増える。
ともかく今は一人になって落ち着いて、この図々しい弟を追い払うための算段をしなければならない。
そう考えた俺は、乱暴な足取りでリビングを出て、自室のある2階に続く階段を駆け上がった。
俺が階段を昇りきったところで、瞬がリビングから出てくる音がして――正直、俺は、瞬に 自分のあつかましさを詫びる言葉の一つでももらえるかと期待したんだが――というより、それが当然と思ったんだが――俺の期待はあっさり裏切られた。
どうやら俺は瞬に対して過度に常識と礼節を求めすぎていたらしい。

そんなものを全く持ち合わせていない瞬は、階段の下から、階段の上にいる俺に向かって、
「お風呂はどうするんですかー?」
と、実に馬鹿げたことを訊いてきた。
「勝手にしろっ!」
瞬を怒鳴りつけて自室に飛び込んだ時、俺の脳の血管は ぶち切れる寸前だった。






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