が、どんな長所も特技も、あの食えないメシですべてが帳消しになる。
『人はパンだけで生きるにあらず』という言葉は、裏をかえせば、人間が命を永らえる上で、パンは神の言葉と比べられるほどに重要なものだということだ。
瞬は、そのパンをうまく作れないんだ。

一人の時にはそれなりに快適だった俺の生活が、瞬との同居で滅茶苦茶になってしまったのは紛う方なき事実だった。
『俺の堪忍袋の緒が切れる日は近い』と、俺が――もしかしたら瞬も――予感し始めたある夜、悲惨としか言いようのない夕食を済ませたあとで、突然瞬が俺に尋ねてきた。

「氷河はどうして お父さんの家に来てくれないんですか」
「――新婚の二人に気をきかせただけだ。おまえもそれでここに来たと言っていただろう。まあ、おまえの家には おまえよりでかいコブがもう一人いるらしいが」
白々しいほど尤もらしい理由と皮肉を一つ、俺は瞬に返してやった。
毎朝毎晩の不味いメシが、俺を皮肉を言わずにいられないほどナーバスな状態にしていたのかもしれない。
俺の皮肉に、瞬は微かに左右に首を振った。

「兄さんは九州の大学で海洋学の勉強をしてるんです。2年前から家を出て一人暮らしをしています」
「そんなはずは――」
そんなはずはなかった。
マーマの入籍前に幾度もセッティングされた家族対面の場。
そこにはマーマの夫になる男とその息子たちが兄弟揃って来ていると、俺は毎回聞かされていたんだから。

「……」
もしかすると相手方のもう一つのでかいコブ――瞬の実兄――は、そのたびにわざわざ九州から上京していたんだろうか。
俺が下手な理由をつけて避け続けていた お夕食会とやらに?
マーマはそんなことは一言も言ってなかったぞ。

さすがに俺は きまりの悪さを覚えた。
が、俺はそんなことくらいで きまり悪くなっている場合じゃなかったんだ。
俺が聞かされていなかったのは、そんなことだけじゃなかった。――らしい。
「お父さんは、本当は僕たち兄弟の叔父さんなんです。僕が10歳の時に両親が事故で亡くなって、母の弟である今のお父さんが 僕たちを引き取ってくれたの」
「……叔父?」
俺は何も聞いていなかった。

「他に近親者はいなかった。お父さんは社会人になったばかりだったのに、生意気な盛りの子供を二人も引き取ってくれたんです。事故の加害者から多少の補償金はもらえたけど、そんなの1年分の僕たちの学費と生活費にしかならなかった。お父さんは僕たちを育てながら働いて、僕たちの世話に時間をとられて、僕たちのことばかりを考えて、これまで結婚もせずにきた。そんなだから、氷河のお母さんを好きになった時もずっと躊躇してて、最初からほとんど諦めてた。僕、だから氷河のお母さんのところに行って頼んだんです。お願いだから お父さんを見てくださいって」
「……」

俺はそれでやっとわかった。
親父を亡くしてからずっと俺ひとりだけを見詰めていてくれたマーマが、今更再婚に踏み切った訳を。
マーマは瞬の涙にほだされたんだ。
多分、俺と同じように。
この瞬を育てた男なら、そりゃあ悪い男のはずがない。
俺がマーマと暮らしてきた十数年間、同じ頃 違う場所で、瞬と瞬の兄は 叔父である父親と互いに支え合って生きていたんだろう。
今、俺が思うことを、おそらくマーマも考えた――。

「お父さんに幸せになってもらうためになら、僕は何でもする」
「……」
瞬の涙は武器だ。
無敵の、最強の、誰もが屈する武器。
俺も屈しそうになった。
屈していただろう。
瞬のその涙が、俺のために流されたものだったなら。
だが瞬の涙は、今も、これまでも、いつでも、瞬の“お父さん”のためだけに流されるものだった。

「お父さんは才能のある編集者だと思うの。ちょっとお人好しなとこはあるけど、責任感もあって、愛情深くて、氷河のお母さんがすごく好きで、きっと氷河のことだって 僕たち以上に愛してくれるよ。氷河は、お父さんが大好きなお母さんの大切なたった一人の息子なんだから。お父さんはほんとに――」
瞬の涙だけじゃない。
瞬のこれまでの言動のすべては、瞬の“お父さん”のためだったんだ。
そして、今も、大事な“お父さん”のために必死の売り込みをしている。






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