瞬の命令を遂行するために氷河がラウンジを出ていくと、瞬はその場で 細く長い溜め息を洩らした。
我が身のことに全く無頓着な仲間の様子を見て、常々その胸中に抱いていた疑念が、ふと頭をもたげてくる。
瞬は、溜め息のあとに小さな呟きを続けた。
「氷河って、どうしてあんなに優しいんだろう」
「優しい? 氷河がか?」

実に珍しい評価を聞いて瞳を見開いた星矢と紫龍に、瞬が真顔で頷き返す。
「うん。バトルの時には いつも僕を気にしててくれて、過保護なくらい僕を庇ってくれるし、ちょっと考え事してると、すぐにお茶やケーキを持ってきてくれるし、たまに帰ってきた兄さんが またどこかに行っちゃってしょんぼりしてると、慰めてくれて、あちこちに連れていってくれたりするんだよ」
瞬のその言葉を聞いた星矢と紫龍は、無言で互いの顔を見合わせた。
二人は、氷河がそんなことをしているからといって、彼を優しい男だと思ったことは一度たりともなかったのだ。

「それは――まあ、その何だ。『きつねのおきゃくさま』って話を知ってるか?」
「きつねのおきゃくさま? 何それ? 童話のタイトルか何か?」
紫龍が口にした“話”がどういうものなのかを、瞬は知らなかった。
反問した瞬に対する紫龍の返答は、妙に歯切れが悪い。
「あ、いや……」
紫龍が口ごもることになったのは、彼が、その物語を例にして氷河の優しさの解説をするのはまずいという事実に、話を振ってしまったあとで気付いたためだった。

話を逸らす必要性を覚えた紫龍の目に、都合よく氷河の姿が映る。
医務室に向かったはずの氷河は、なぜか城戸邸の庭を、今日の午前中までは門があった方に向かって歩いていた。
どうやら彼は、どうしても ただのかすり傷を大袈裟に扱う気になれなかったらしい。
適当に時間つぶしをして、瞬の指示に従った振りをしようとしているようだった。
紫龍は、これ幸いとばかりに、氷河の不従順を瞬に言いつけたのである。
「瞬、氷河の奴があんなところをふらふらしてるぞ。ちゃんと手当てをしてもらっていないんじゃないか」

言われて 窓の向こうに視線を投げ、そこに大怪我・・・をしている仲間の姿を見い出した瞬が、掛けていた椅子から立ち上がる。
「氷河ってば、かすり傷だからって甘く見て、破傷風にでもなったら命にだってかかわるのに! 僕、ちょっと行ってくる」
瞬がその場から勢いよく飛び出ていく様を見て、紫龍はほっと安堵の息を洩らしたのである。
彼の上に、場を外した瞬の代わりに 星矢の声が降ってくる。
「で、何なんだよ、その『きつねのおきゃくさま』ってのは。俺も知らねーぞ」

それは瞬には言いにくいことだったが、星矢には平気で言えることだった。
紫龍は、問われたことに今度は即答した。
「子供向けの童話だ。キツネが、住む家を持たないヒヨコやウサギやアヒルを引き取って育てる話」
「それと氷河が瞬に優しいのと、どう関係あるんだよ」
「キツネの目的は、ヒヨコやウサギを太らせて食うことなんだ」
そこまで説明されてやっと得心した星矢が、紫龍に大きく頷く。
「あ、そーゆーことか。氷河の目的って、瞬を食うことだもんな」

キツネの目的を知ったなら、ヒヨコは無邪気にキツネの元に駆け寄っていくことはしなくなるだろう。
瓦礫の山が片付けられていく様を見物している氷河の側に 転がるように駆けていく瞬を見て、星矢は苦笑せずにはいられなかった。






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