昨日の今日で また敵の襲撃があるとは思えない。
翌朝、瞬はその本を探しに書店に行こうかと考えながら、仲間たちのいるラウンジに入っていった。
そこに氷河の姿があるのに気付いて、彼に声をかける。
「僕、これから買い物に出るんだけど、氷河、ついでに買ってきてほしいものとかない?」
「いや、特には。荷物持ちはいらないか?」

それが氷河の返事だった。
瞬は氷河のために何かしたいと考えて 彼に声をかけたのに、返ってきた返事は全く逆。
瞬は自ら荷物持ちを買って出る氷河に、ほんの少しだけではあるが不満のようなものを感じたのである。
「ねえ、氷河は、何かほしいものとか、してほしいこととかない? 僕、いつも氷河に何かしてもらうばっかりだから、たまには お返ししたいんだ」
「それは困る」
「困る? どうして?」

それは瞬にとっては思いがけない返答だった。
瞬はもちろん、自分たちの友情がギブアンドテイクで成り立っているものだとは思っていなかったが、自分の提案が氷河を困らせるようなものだとは、なおさら思っていなかったのだ。
そんな瞬に、
「俺は、そうしたいから そうしているだけなんだ」
とだけ言って、氷河がラウンジを出ていく。
氷河の言葉の意味が理解できず、瞬はしばし その場に立ち尽くすことになったのである。

ところで、瞬にはわからない氷河の意図をきっちり理解している人間が、その場には約2名ほどいた。
その2人――星矢と紫龍――が、瞬には聞こえないように こそこそと囁き合う。
「そりゃ、氷河としては、いざという時のために貸しをいっぱい作っときたいよな」
「そのために、せっせとエサを運び、求愛ダンスを踊り続けているわけだし」
「すべては瞬といかがわしいことをするためか。氷河も大変だな」
「これが女相手のことだったら、向こうから すり寄ってきているところだろうに、氷河も面倒な相手に惚れたもんだ」

氷河の日頃の親切へのお返しができそうにないことにがっかりしていた瞬の耳には、星矢たちのひそひそ話は全く聞こえていなかった。
氷河の親切は報いを期待してのことではない――その事実は落胆すべきことではなく、むしろ感動すべきことなのだと自分に言い聞かせるのに、瞬は忙しかったのである。
その作業を終えてから、瞬は突然思いついたように紫龍の方を振り返った。

「そうだ。紫龍。昨日言ってた 『きつねのおきゃくさま』ってどんな話? 僕、本屋さんに捜しに行こうかと思ってるんだけど、氷河が僕に優しくしてくれることと その話と、どんな関係があるの?」
突然 瞬に話を振られて、紫龍の心臓は飛び上がってしまったのである。
氷河の親切の裏にある下心を瞬に知らせるのは、氷河にとっても瞬にとってもあまり良い結果を生むものではないような気がしたからこそ、彼は昨日、その話をうやむやにしたのだ。

「忘れていなかったのか……」
紫龍の舌打ち代わりの呟きに、瞬がそうと気付かず浅く頷く。
「なんだか気になって……。沙織さんは知ってるみたいだったのに、教えてくれなかったんだ。健気な動物たちの話だとか言って、涙ぐんでた……」
鬼の目に浮かぶ涙よりも珍しいものを見せられて、瞬が興味を抱かないわけがない。
誰が悪いわけでもないのだが、この 間の悪さに、紫龍は今度は言葉にも態度にも出さない舌打ちをすることになった。
その話の内容を瞬に知らせるのは どう考えても好ましいことではないと、彼は思っていたのだ。

「なあ、この際、瞬も、氷河の目的はちゃんと理解しといた方が、双方のためなんじゃねーの」
瞬への説明を渋る紫龍の脇から、ふいに星矢が口をはさんでくる。
星矢の言葉に、紫龍は僅かに眉根を寄せた。
が、星矢は、龍座の聖闘士とは全く異なる視点から、仲間ふたりのありようを見ていたのである。
このままでいたら――氷河の最終目的を瞬が知らないままでいたら――、氷河がどれほど瞬に“優しく”してやったところで、おそらく氷河はその目的を永遠に果たせない。
瞬は、氷河に“優しく”されることで、友人として仲間としての彼への信頼と友情は深めるかもしれないが、それ以上のことはまず期待できない――と、星矢は思っていた。
要するに星矢は、瞬の鈍さに焦れていたのだ。

紫龍の心中にも、その予感はないでもなかったらしく――彼は、強くは星矢を止めようとはしなかった。
星矢が、瞬に向き直る。
「あのさ、『きつねのおきゃくさま』ってのはさ、キツネが、住む家を持たないヒヨコやアヒルやウサギを引き取って育てる話なんだと」
「それがどう――」
それが、氷河が優しいこととどう関係があるのだろう。
その関連性が理解できず、瞬は首をかしげた。

「キツネの目的は、ヒヨコやアヒルやウサギを太らせて食うことなんだ」
「太らせて?」
瞬の首の傾斜角度が更に増す。
「僕、そんなに痩せてる?」
瞬の実に馬鹿げた質問に、さすがに星矢は苛立ちを覚えた。
その声があからさまに怒声めいたものに変化する。
「そーじゃなくて! 氷河はおまえを手なずけて、食おうとしてんの。氷河はおまえとナニがしたいんだよ」
「ナニって何」

瞬は、あくまでもどこまでも鈍感である。
あまりといえばあまりな反問に、星矢は暫時 声を詰まらせることになった。
そして、こういう状況になってもまだ幾許かの逡巡を その胸に抱いていた紫龍は、瞬の無粋に 感嘆の声を洩らしてしまったのである。
「まさか今時、そんな古典的なダジャレを聞くことがあろうとは思わなかった……!」

自分が2人の仲間を驚嘆させていることに気付いていない瞬は、しかしもあくまで真顔である。
「だから、ナニって何なの」
「星矢、おまえが言ったんだからな。おまえが説明しろ」
「この清純な俺に、んなこと説明できるわけねーだろ!」
「だからナニって何」
瞬はひたすらクラシックなダジャレを繰り返している。
星矢は、自分が引き起こした事態の収拾に乗り出すつもりはないらしい。
結局それは、この件に最も乗り気でなかった男の仕事になった。

紫龍は半ば開き直って、瞬の質問に答えたのである。
「ずばり言うと、この場合は、おまえとの性交だ」
「せいこう?」
瞬は、紫龍が口にした単語の意味がわからなかった。
というより、瞬は『せいこう』に当てる漢字がわからなかったのだ。
それが『成功』でも『精巧』でも『製鋼』でもないことを瞬に知らせるために、紫龍は説明を続けるしかなかった。

「カワセミやウミネコのオスは 自分がどれほど飢えていてもメスにエサを運び、オナガセアオマイコドリや丹頂鶴のオスはメスの前で踊り狂い、庭師鳥のオスはメスに気に入ってもらうために巣を飾りつけ続ける。彼等の目的はただ一つ。氷河も同じだ、他に目的はない」
「……」
そこまで言われて瞬はやっと、『せいこう』が『性交』であることを理解したのである。
信号機のように青くなったり赤くなったりすることを しばし繰り返した後、瞬はその両の拳をぶるぶると震わせ始めた。






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