「瞬。氷河は怪我人なんだ。今はそのことは忘れろ」
氷河はそろそろ目覚めるらしい。
目覚めた氷河が、その場に瞬の姿がないことに気付いたら、さすがにその状況を奇妙に思うだろう。
瞬に不要な入れ知恵をしたことが氷河にばれるのは、非常にまずかった。
なにしろ考えなしの軽率で、氷河の純愛・・を思い切り妨害してしまったのだ。
ばれたら氷雪の聖闘士にどんな目に合わされるか、わかったものではない。
瞬の好意を手に入れる機会を永遠に失った(かもしれない)という事実を知った氷河が どういう行動に出るかを あれこれと想定し、紫龍は目一杯 顔を歪めることになった。

「何やら取り込み中のようだが、では、私はこれで。彼は1号室にいますよ。今、他の特別室は皆空いてますから、病院を壊さない程度でさえあれば、多少騒いでもどこからも苦情はこないでしょう」
この病院の理事の一人であるグラード財団総帥から、彼女の聖闘士たちには最大限の便宜を図るようにと言い含められているはずの医師が、そう言い置いて瞬たちの前から立ち去ろうとする。
紫龍は咄嗟に彼を引きとめた。

「すみません。頼みがあるんですが」
「頼み……とは?」
「氷河の麻酔の有効時間を少し長引かせてほしいんです。できれば下半身だけがしばらく動かなくなるように」
アテナの聖闘士の中では最も分別があるように思っていた龍座の聖闘士に 突然そんなことを言われて、医師は驚いたようだった。
何より、彼の意図がわからない。

「それは何のために? 治療や検査に必要でないことはできませんよ」
「そうしたところで害もないでしょう。なに、氷河はあれでもアテナの聖闘士ですから、ちょっとやそっとのことじゃ くたばったりはしませんよ。むしろ、そのデータが取れれば、俺たちの今後の治療の役に立つかもしれない。氷河の身内も同然の俺たちが構わないと言ってるんですから、やってしまってください。責任は俺が負います」

医師は、グラード財団総帥から、彼女の聖闘士の希望は可能な限り叶えるようにという指示を受けていた。
かてて加えて、一人の医師として、アテナの聖闘士たちの肉体に非常な関心を抱いていた。
紫龍に大義名分を与えられ、自分が責任を負わずに済む旨を保証されて、彼は大いに心を動かされたらしい。
長く迷うようなことはせず、彼は紫龍の要請を受けることにした。

「では、コントロールルームから遠隔操作で麻酔薬を投入します」
医師に頷いた紫龍が、今度は瞬に指示を出す。
「瞬、おまえ氷河と顔を合わせるのが嫌なら、コントロールルームのモニターで氷河の様子を見てろ」
その指示に、先に反応を示したのは瞬ではなく氷河の担当医の方だった。
患者の命とプライバシーを託される仕事に従事している者として、彼は、さすがにそこまで部外者の勝手を許すわけにはいかなかったのである。

「病院関係者以外の者をコントロールルームに入れるわけには――」
「特別室にいるのは、今は氷河だけなんでしょう? 他の患者の様子を見るわけじゃない」
「しかし――」
「今回の氷河の怪我は瞬を庇って負ったものなんです。瞬は申し訳なくて、氷河に顔を合わせられないと言っている。氷河が怒っていないことを、瞬に知らせてやりたいんです。瞬が側にいるのといないのとでは、氷河の回復の速度が違うことは知ってるでしょう」
「ああ、彼のデータは非常に面白――いや」

沙織が彼女の聖闘士たちの身を任せるだけあって、彼は若いながら非常に有能な医師だった。
そして、それ以上に、好奇心にあふれた学究の徒だったのである。
「今回だけですよ」
彼は、内心では学究心にわくわくしながら、表向きは渋る態度を示しつつ紫龍に頷き返したのだった。






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