本来は、その健康状態が政情や株価に影響するような政治家や経済人のために用意されているグラード総合病院の特別室には、専用のコントロールルームがあり、そこには専任の看護士が詰めていた。 6部屋ある特別室の内部を映すモニターは、今は氷河のいる一部屋だけがオンになっている。 病状監視の他に、患者の身辺警護を目的としているモニターは横幅が20インチほどの大きさで、集音マイクが音声も拾ってくるようになっていた。 モニターの向こうにいる氷河の手足には、検査や投薬のための栓や管が4、5本つながれたままになっている。 ベッドの枕元にある機械のライトが青から赤に変わり、彼に麻酔薬が投入されたことが瞬にもわかった。 いったい紫龍はこのモニター超しに 自分に何を見せようとしているのか――。 瞬は、そうする必要もないのに息をひそめて、モニターの向こうに映る人の様子を見守っていた。 氷河は既に意識を取り戻しているようだったが、目を閉じて静かにベッドに横になっている。 そこに紫龍が登場した。 「氷河、目が覚めたか。具合いはどうだ」 「まだ少しおかしいようだ。足に力が入らない」 氷河が億劫そうに目を開ける。 言うことをきかない身体を引きずるようにして、彼は寝台の上に上体を起こした。 「そうか。無理はするな」 いかにも だるそうにしている氷河に頷きながら、室内の様子を写すカメラが作動しているのを確かめた後、紫龍はおもむろに暗い顔を作った。 「どうした」 仲間の暗い表情ではなく、今この場に瞬がいないことが、氷河は気になったらしい。 紫龍の背後に何かを探すような視線を投げてから、彼は浮かぬ顔をした長髪の仲間に尋ねた。 「言いにくいんだが、言わずにおけることでもないからな……」 「なんだ?」 絶妙の間――氷河が僅かに不自然を覚えるほどの絶妙の間を置いてから、紫龍は思い切ったように口を開いた。 そして、衝撃の事実を仲間に告げる。 「おまえの怪我のことなんだが……。外傷は大したことがなさそうに見えるんだが、脊髄の――腰髄部分に損傷が認められたそうだ」 「なに?」 「下肢の運動神経を司る部分を損傷したらしい。つまり、おまえは下半身不随になるということだ。既に感覚がないだろう?」 「……」 重苦しい沈黙――が病室を覆う。 それは、随分と長いこと、室内と そこにいる2人の聖闘士を支配し、先にその沈黙を破ったのは寝台に身体を置いた男の方だった。 「それは……俺が一生歩けなくなるということか」 紫龍は、その質問への明答を避けた。 代わりに、仲間を慰撫する言葉を吐く。 「腰髄が完全に切断されたわけではないから、全く絶望的というわけではないそうだ。リハビリで多少の回復も期待できないわけではないらしい。が、腰から下の機能はすべて働かなくなると思っていた方がいい。クリフォード・チャタレイ氏同様、あっちの方も」 「……」 「沙織さんはおまえの面倒を一生責任を持って見ると言ってくれている。治療やリハビリにかかる費用はもちろん、身体のこと以外では何不自由ない生活を一生保障すると言ってくれた」 常人が持つ能力の限界を超えて強靭な肉体を有することを 自らの存在証明にしているような聖闘士にとって、“身体のこと以外では何不自由ない生活”は、すなわち不自由なだけの生活と同義だった。 自らのものは その身体と心だけ、他には何も持っていないという境遇の中で、ひたすらに希望だけを見詰め、青銅聖闘士たちはこれまで懸命に闘い続けてきたのだ。 だというのに、自らのものといえる二つだけのものの内の一つが失われてしまった――のである。 氷河が受けた衝撃の大きさは、瞬には察して余りあるものがあった。 それが嘘だとわかっていても――わかっているから なおさら――瞬には氷河の悲嘆と苦痛が手に取るように感じ取れたのである。 自分なら泣き叫び、運命を呪っている――そう瞬が思った時、モニターの向こうから低く静かな氷河の声が聞こえてきた。 「……瞬は無事なんだな?」 「ああ」 「ならいい」 短い吐息のような氷河の声を聞き、その言葉の意味を理解した瞬間に、瞬の瞳からは涙があふれてきてしまったのである。 どうして この人の優しさを信じることができなかったのか。 瞬は、自分で自分がわからなかった。 命を賭けて、幾度も同じ死地を駆け抜けてきたのだ。 闘いの場で、彼を信じられなかった時など、ただの一瞬もなかったというのに。 モニターの向こうで、まるで瞬の涙が見えているかのような顔をして、紫龍がカメラに視線を投げてくる。 それから彼は、衝撃的な事実を告げられて懊悩していて当然の仲間に、更に無体な要求を突きつけた。 「明日、瞬を連れてくる。自分のせいで おまえがこんなことになってしまったと、瞬の奴、落ち込んでいるんだ。悪いが笑ってみせてやってくれ」 「言われなくても そうする」 「すまんな」 涙の向こうにいる氷河の姿は、輪郭を失い ぼやけている。 紫龍が病室を出ると、氷河はベッドの上でしばらく自失したように虚空を見詰めていた。 やがて小さく、 「そうか……」 と呟き、彼は右手で自分の顔を覆った。 |
■ クリフォード・チャタレイ卿 : 『チャタレイ夫人の恋人』 By D・H・ロレンス
第一次世界大戦に従軍し、下半身不随になり性的能力を失う |