「俺がナニする目的で、瞬に優しくしていただとーっ !? 」 特別室のあるフロアに、現在 氷河以外の患者はいない。 彼がそこでどれほど大きな声を響かせても どこからも苦情はこなかったろうが、たとえ他に患者がいたとしても、氷河はその声のボリュームを抑えることはできなかったに違いない。 「貴様等、よくもそんな悪意に満ちたデマを……!」 「でも、全く嘘じゃないだろ? てゆーか、ただの事実だろ?」 「……!」 無責任なデマゴギーを流布してくれた仲間たちを重ねて責め立てようとしていた氷河が、星矢のその言葉で声を詰まらせる。 星矢の決めつけを、氷河は決然と否定してしまうことができなかった。 確かにそれは、全くのでたらめではなく、ただの事実だったのだ。 だが、たとえそうだとしても、である。 思春期の少女のように潔癖な瞬を不快にしないように、不必要な恐れや嫌悪感を抱かせることのないように、細心の注意を払って慎重なアプローチを試みている男の恋路を、そんな“事実”で邪魔立てする権利は誰にもないはずではないか。 氷河は今こそ小宇宙を究極にまで燃えあがらせて、人の恋路を邪魔してくれた2人の仲間を蹴り殺してやりたかった。 しかし、情けないことに下半身に力が入らない。 「無理はするな。まずいことになったと思って、おまえに対する瞬の嫌悪感を拭い去るために一芝居打ったんだ。演出の必要上、医者に頼んで おまえに下半身の神経を麻痺させる麻酔を打ってもらった。常人ならあと2時間は切れないそうだ」 「貴様っ! 俺が下半身不随になったというのも嘘かっ」 「嘘じゃない。俺は一生不自由するとは一言も言っていないだろう。実際に3時間ほど おまえは動けないわけだし」 悪びれる様子もなく――むしろ、瞬の誤解を解いたことへの謝意を要求するように、紫龍の口調は尊大である。 紫龍の尊大の根拠はある意味確かな事実ではあったので――氷河はしぶしぶ紫龍を蹴り殺すのを諦めたのだった。 自分はまだアテナの聖闘士として闘えるということ、瞬だけを戦場に送り出す苦しみに耐えなければならない未来が消えうせたことに、安心すると同時に気が抜けて、氷河はどっとベッドに倒れ込んだ。 「氷河……」 涙で瞳を潤ませた瞬が、そんな氷河の顔を覗き込んでくる。 氷河は、瞬を責めるわけにはいかなかった――できなかった。 「いや、その……そういう期待が全くなかったわけじゃないんだが――」 自身の真情を正直に告げ、氷河は恐る恐る その右手を涙で濡れている瞬の頬へと伸ばした。 瞬が その手を払いのけようとしないことに安堵して、言葉の先を継ぐ。 「俺は、俺がおまえに何かしてやって、おまえが『ありがとう』と言って笑ってくれれば、それが嬉しかったんだ」 「氷河、ごめんなさいっ」 振り払うどころか、瞬は、伸ばされた氷河の手をしっかりと両手で包み、その手に唇を押し当てさえしてきた。 もっととんでもないことを望んでいたはずの氷河の心臓が、たったそれだけのことで大きく跳ね上がる。 氷河の心臓の具合いなど知るよしもない瞬は、更に涙声で氷河に訴え続けた。 「ごめんなさい……! 僕、知ってたのに、氷河がそんなんじゃないって知ってたのに、どうしてだか忘れちゃってたんだよ……!」 思いがけないことを仲間に知らされたショックのあまり、即物的なものしか見えなくなってしまっていたのは氷河ではなく瞬の方だった。 瞬は、今ではその事実に気付き、自らの浅はかを後悔していた。 氷河の“目的”が自分への好意から生じたものだということも、瞬は理解していた。 氷河の気持ちは決して不快なものではなく、瞬はむしろ彼の気持ちが嬉しかった。 氷河の手をとって涙している瞬の後ろで、星矢が ほっと短い吐息を洩らす。 これで瞬は氷河の手に落ちたと、彼は思っていた。 『大山鳴動してネズミ一匹』と評して語弊がないほど 妥当かつ ありきたりな結末に、それでも彼は心を安んじたのである。 |