「ちょっと前――先月の末に、氷河とドライブに行ったの」
その恐れのもたらす結果が自分ひとりだけのことでは済まないことは、瞬も理解しているらしい。
今日の無様な闘いのあとでは気付かないわけにもいかなかったろう。
瞬は、少しばかり ためらいの混じった声で星矢に語り始めた。

「闘いが続いてて、僕は少し疲れてた。闘うことじゃなくて、闘っても闘っても 闘いに終わりが見えてこないことに」
「あ? ああ、たまにはあるよな、そういうことも」
言葉の先を促すために、星矢は瞬に頷いた。

もっとも、そう言って瞬に頷き返した星矢自身は、実はそんな迷宮に迷い込んだ経験がなかった。
いずれにしても闘うしかないのなら、前向きに闘った方がいい。
星矢は、そんなことをいつも考えたり意識したりしていたわけではなかったが、考えなくても意識しなくても そういう闘い方ができるタイプの人間だった。
だが、瞬はそうではない。
星矢もそれは知っていた。
それでも闘い続ける瞬の姿を悲愴と感じることもあった。
それは瞬の弱さだが、同時にそれは瞬の強さでもあり――そんな瞬を見ていることで、人の闘い方はそれぞれなのだということを、星矢は知ったのである。

「どこなのかはわからない。北の方だよ。大きな川の側に広い田んぼがあるとこで、ちょうど台風が過ぎたばかりの稲刈りの時期。僕は、前の日に、雨や風に 稲が倒されないようにって農家の人が嵐の中を見回ってるニュースを見たばかりだった」
そのニュースは、星矢も瞬と一緒に見ていた記憶があった。
家屋の倒壊や河川の氾濫等の映像を目にすることの多い自然災害のニュースの中で、その見慣れぬ光景は、星矢の目にも印象的に映ったのだ。

「お米を育てるのってすごく大変なんだって、キャスターの人が言ってた。とっても手間がかかるんだって。種を撒いて、苗を作って、田植えをして、除草もしなきゃならないし、毎日毎日 水の具合いや病気を心配して――。その上、そんなふうな1年間の苦労が台風ひとつで 全部だめになっちゃうこともあるんだって。毎年おんなじ苦労をして、それでも農家の人たちは毎年 種を撒いて、苗を植えて――」
あの時、メシは最後の一粒までしっかり食おうと星矢は思った。
その決意を言葉にもしたように思う。

「そういうの、でも、お米だけのことじゃないよね。何かを育てたり作ったりすること、誰かを守ること、闘い続けようとすることだって、それは おんなじ。ううん、人が生きてることそのものだって、そうだ。誰だってみんな、もしかしたら徒労に終わるかもしれないことのために、それでも一生懸命頑張ってる」
他の仲間たちが何を考えているのかまでは確かめなかったが、みな似たり寄ったりのことを考えているのだろうと、星矢は思っていた。
が、どうやら彼の仲間たちは――少なくとも氷河は――その時、全く別のことを考えていたらしい。だから氷河は、瞬をそこに連れていったのだろう。

「氷河が言いたいことは何となくわかったんだ。氷河は、言葉では何も言ってくれなかったけど、でも――わかった」
言葉にはされなかった氷河の言葉を彩る光景を思い出したのか、星矢の前で、瞬は目を細めた。
「台風一過の秋晴れで、稲穂が金色に輝いてて、すごく綺麗だった。僕たちは並んで、田んぼの横にある土手に座って、収穫直前の金色の海を見てた。ずっと、ふたりで、何も言わないで」
「はあ……」

同じものを見て、感じること考えることは人それぞれである。
瞬が金色の稲穂の揺れる様を見て何を感じ考えたのかは 星矢にはわからなかったが、その光景を思い浮かべているらしい今の瞬が、夢でも見ているような眼差しをし、ひどく幸福そうな表情を浮かべてることは星矢にも見てとれた。
戦いにみ疲れていた瞬の心を癒すことに、氷河は成功したのだろう。

「その時――なんでかな、ずっとこうしていたいって思ったんだ。人は誰だって頑張って生きてて、つらいのは僕だけじゃないんだって気付いたばかりだったのに、僕はあの時、他の人も この世界そのものもどうなってもいいと思った。ううん、あの時、僕は、世界に氷河以外の何かがあることさえ忘れてた。僕と氷河しかいないような気になってた。幸せだった。闘いなんてどうでもいいと思った」

「まあ、たまにはそんなことも……」
――あるのだろうか?
少なくとも星矢はそんな体験をした記憶がなかったし、だから、どういう時に 人がそういう気持ちになるのかを察することもできなかった。

「それからだよ。氷河といると、必ずそういう気持ちになるようになった。僕自身が世界から離れて、氷河だけにつながってるみたいな感じがするんだ」
「へ……へえ?」
それは星矢には わからない感覚、わからない世界のありようだった。
「氷河にちょっと手が触れられるだけで おかしくなる。自分がどこにいるのかわからなくなる。最近は、氷河の姿を見たり、声を聞いたり、その気配を感じるだけで、もう頭の中がぼうっとして、冷静でいられなくなって――」

「トリップしてしまうわけだ」
それまで脇のソファで 膝の上に置いた雑誌に視線を落とし、星矢と瞬のやりとりには無関心でいるようだった紫龍が、ふいに口を開く。
「トリップ? うん、そんなふう……。あ、でも、変な薬は使ってないよ」
幸福そうだった瞬の表情が 形ばかりの笑みのようなものに変わってしまったのは、紫龍が口にした単語が、瞬には 現実からの逃避を指しているように思えたからだったのかもしれない。

「何を見ても聞いても、何もかもが氷河を連想させる」
独り言のような瞬の呟きは、どこかつらそうだった。
「恐いんだ。僕は――そのうち、僕自身も消えてしまうような気がして。そうして、世界には氷河しかいなくなる……」

「それは よくあることだ」
星矢が途中で言うのをやめた言葉を、紫龍は断言という形で最後まで言い切った。
そのあとに、星矢には思いつかなかった別の言葉を続ける。
「そうなる理由はわかっているんだろう?」
紫龍に確かめるようにそう問われた瞬は、一瞬切なげな目をして唇を噛みしめた。
そして、紫龍に問われたことには答えずに、いかにも力のない様子でラウンジを出ていった。






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