「で?」
「で、とは」
「どーすんだよ! アテナの聖闘士5人のうち、2人が使いものにならなくなってるんだぞ。一輝は相変わらず、どこ ふらついてんのかわかんねーし!」
星矢と紫龍がラウンジに戻ると、その場に彼等の2人の仲間の姿はなかった。
おそらく彼等はそれぞれの部屋で、物思う秋にふさわしく恋の思いにどっぷりと浸っているに違いない。
星矢は、天高く馬肥ゆる秋にふさわしく、辺りはばからない いななきをその場に響かせた。

「そうだな。困った事態だな」
星矢に頷いてみせる紫龍の口調は、しかし、至って冷静かつ平静。この事態を憂えているようには、まるで見えなかった。
「ちっとも困ってるように見えねーぞ」
「これは第三者にどうこうできる問題じゃないからな。俺たちにできるのは――」
「できるのは?」
「あの2人がまともに闘えるようになるまで、敵の襲撃がないように祈ることだけだ」
「それしかできねーのかよ!」

星矢のいななきのボリュームが更に大きなものになる。
それは、つまり、何もするなということではないか。
何の行動も起こさないことが問題解決のための一方策たりえる場合があることは、星矢も一応理屈の上では理解していた。
しかし、星矢は、急いでいる時には飛行機の中ででも目的地に向かって走っていたい男なのだ。
人智を尽くさずに天命だけを待っているような行為は、星矢には我慢のならない問題解決法だった。

「聖闘士稼業と恋って両立できないもんなのか?」
要するに星矢は、現状を打破するために、積極的に何事かを為していたかったのである。
アテナの聖闘士が闘えなくなるという地上の平和の危機に直面している今この時に、何もせずに手をこまねいているだけの自分というものが不快でならなかったのだ。
だが星矢には、自分が 氷河と瞬の熱を冷まさせる方向に動くべきなのか、あるいはいっそ 2人がくっつくように画策すべきなのかという、極めて根本的な指針の決定すら為すことができずにいた。

「さて。これは一種の職場恋愛だからな。私情が入ると、無私でいることが期待される場面で 冷静な判断ができなくなる可能性はあるだろうな。俺たちがしているのは、どこまで本当かは知らないが、光速音速の次元で為される命懸けのバトルで、一瞬のためらいが命取りになることもあるわけだし」
「瞬は、氷河を好きになったせいで他のことを考えられなくなったって言ってるんだから、他のことも考えられるようにするには、やっぱり忘れさせるしかないのかな」
要するにすべてが元の通りに――氷河と瞬がアテナの聖闘士として地上の平和だけを求めて闘っていた頃に――戻れば、今ここにある危機は最初からなかったことになるのである。
星矢は、彼らしく単純に、そう思った。
が、紫龍はその意見には賛成できないらしい。

「ヒエロニムス・ボスの描いた絵に『快楽の園』というのがあるんだが」
「なんだよ、それ? 俺がゲージツ方面に疎いのは知ってるだろ。俺が知ってる絵描きはクルマダマサミとアラキシンゴだけ!」
自信満々で言い放つ星矢に、紫龍は他意なく頷いた。
確かにそれだけ知っていれば、聖闘士が生きていくのに支障はない。

「ルネサンス期オランダ絵画の巨匠だ。その絵に、ガラスの球体の中に一組の恋人たちのいる図がある。2人の他には誰も何もない世界で、互いしか見えていない2人の絵だ」
「はあ……」
星矢の合いの手は、間が抜けきっていた。
恋をしているわけではない紫龍にまで、すぐに結論が見えない持って回った会話の進め方をされては、いい加減うんざりしてくる。
星矢が欲しいのは、結論だけなのだ。
星矢のんだ様子を見て取った紫龍から、星矢が望む結論が提示されたのは、星矢が間の抜けた合いの手を入れた直後だった。

「しかし、そのガラスでできた世界はいつ壊れてもおかしくない もろいもので、それが壊れてしまったら2人がどうなるのかは誰にもわからない」
「不吉なこと言うなよ!」
暗喩直喩を駆使した修辞法になど全く興味のない星矢も、さすがに紫龍のその言葉の意味はわかった。
恋の破綻が、2人を聖闘士として闘えないものにするどころか、人間として生きていけないほどの打撃をもたらす可能性がある――と、紫龍は言っているのだ。
『たかが恋で』と笑い飛ばしてしまうことは、星矢にはできなかった。
星矢は恋を知らなかった。
それが強かった人間をどう変えてしまうものなのかも、星矢には想像すらできない。

結局自分には何もできないのかと苛立ちながら、星矢は落ち着かない視線をあちこちに飛ばしてまわることになった。
その視線が窓の外に向いた時、星矢はそこに氷河の姿を見い出したのである。
氷河は、先ほど星矢たちが彼を捕まえた場所――秋の花が眺められるでもない、城戸邸の建物の全貌を眺め渡すことができるのが唯一の取りえといえるような 詰まらない場所――に立って、ある一点をじっと見詰めていた。

氷河はいったい何を見ているのかと怪訝に思い、星矢は彼の視線の先を辿ってみたのである。
氷河の目が何を見ているのかは、すぐにわかった。
氷河の視線は、城戸邸の2階にある瞬の部屋のベランダの上に留まっていたのだ。
そこには瞬がいて、瞬は、やはり庭にいる氷河を無言で見詰めている。

星矢には2人の表情まではわからなかった。
が、恋し合う2人が、言葉を交わすこともなく、そのために歩み寄ることもせずに見詰め合っていたら、無粋が身上の星矢でも察しはつくというものである。
それでなくても今は、無意味に人を感傷的な気分にさせる秋という季節の真っ最中なのだ。

「うーっ、じれったい」
「おまえが焦れるようなことではあるまい」
「あの距離感が鬱陶しいんだよ! 正面から当たって砕けて、さっさと勝負して決着つけちまえばいいのに!」
「正面から当たるのは結構だが、それで砕けられたら困るだろう」
紫龍の言うことはもっともである。
だからこそ、星矢は、本来なら他人事にすぎない仲間の色恋に あれこれと気をまわしているのだ。

「こういう場合どうすればいいんだ? いい解決法はないのかよ。経験者とかいないのか?」
「職場恋愛のか?」
星矢にそう問い返してから、紫龍はある重要な人物の存在を思い出した。
彼等の職場のマネージメントを生業なりわいとしている彼女なら、的確なアドバイスをもらうことはできなくても、職場恋愛の経験者の1人や2人くらいは紹介してもらえるかもしれない。
そう考えて、紫龍と星矢は、彼等の上長に相談を持ちかけてみることにしたのである。






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