「まあ、そんなことがほんとにあるなんて!」
聖闘士たちの直接の上長にして最高責任者である女神アテナは、星矢たちから事情を聞くと、ひどく嬉しそうに瞳を輝かせて、まずそう言った。
それから、僅かに眉根を寄せて、自分が相談者たちの期待に沿えない旨を知らせてくる。

「そうねえ、いいアドバイザーを紹介したいのはやまやまだけど……」
「これまでに こういう事態が起こったことは一度もなかったんですか? 聖域なんて、常識を持ち合わせていない変人ばかりがうようよしているんだ。常識的でない色恋沙汰の一つや二つ転がっていてもおかしくない」
紫龍は、聖域にいる変人たちを貶める意図があって そんなことを言ったわけではない。
彼はただ、聖域には素直な気持ちで尊敬できる人物がいないと思っているだけだった。
アテナも紫龍の発言を暴言とは思わなかったらしく、彼を咎めるようなことはしなかった。

「噂ならいくらでもあるのよ。黄金聖闘士だけでも――」
沙織は噂の実例を出そうとしたらしいのだが、すぐに思い直したようで、彼女は賢明にも具体例を口にすることを避けた。
それでなくても 黄金聖闘士たちを尊敬できずにいる青銅聖闘士たちに、今以上の偏見を与えることは好ましいことではない――と、聖域の管理責任者は考えたのだろう。
もっとも、その後、具体例を挙げることを避けた思慮深いアテナの口から出てきた言葉は、青銅聖闘士に 黄金聖闘士たちへの尊敬の念を増す類のものでもなかったが。

「12×11÷2、いいえ、カノンも入れたら、13×12÷2かしら。78組のカップルの“噂”だけなら聖域中に転がっているわ。でも、78組中、どれが真実なのか、それともどれも噂でしかないのか、そこまでは私も把握できていなくて――へたに探りを入れて、それがデマでも真実でも、ちょっと困ったことになるでしょ」
「……」

アテナはさすがに慎重かつ聡明である。
世の中には、知らずにいる方が心穏やかでいられることもある。
アテナの遠回しな忠告に従って、紫龍は、聖域の変人たちにアドバイスを求めることを断念した。
これはやはり、誰にも手や口を挟むことはできず、なるようになるのを見守ることしかできない事態なのだろう――と、紫龍は思い始めていた。
そこに、沙織が尋ねてくる。

「それで、氷河と瞬はどこまで行ったの」
「そこの庭とベランダ。なにやら意味深な感じで見詰め合ってたぜ」
星矢の頓珍漢な答えを、紫龍は慌てて訂正した。
「まだ互いに告白もしていないようです」
しかし、星矢経由で瞬の気持ちを知った氷河が、自分の気持ちを瞬に伝えるために動き出すのは時間の問題だろう。
互いの気持ちを確認し合ったあとで2人がどう変わるのか、それは、氷河でも瞬でもない身の紫龍には想像することもできなかった。
案外、当の2人もわかっていないのかもしれない。

「どうするのがいいのか、参考までにアテナの意見を聞かせてください」
「あの2人をくっつけるのがいいか、引き離した方がいいのかを?」
沙織は肩をすくめて、左右に首を振った。
それは、たとえアテナといえど、第三者が口出しすることでも決めることでもない。

「でもさ。沙織さんが駄目だって言ってくれたら、あの2人も、少しは冷静になってくれるかもしれないじゃないか!」
星矢は、この件に関して沙織までが無為無策であることを知らされて、黙っていることができなくなったらしい。
恋とはそんなにも――神でさえ口出しできないほど大層なものなのだろうか。
地上の平和のために闘うという崇高な義務と権利を負う2人が、その義務と権利を投げ出さずにいられないほどの大事なのだろうか。
星矢にはどうしても納得がいかなかった。

「このまま放っておいて、万一 氷河と瞬がくっついたりしたら、あの2人、ますます闘いなんてどうでもいい気分になって、アテナの聖闘士なんてやってられなくなるかもしれないんだぜ! そしたら、地上の平和はどうなるんだよ!」
青銅聖闘士の1人や2人が闘いから離脱したからといって、そのことが地上の平和の維持や崩壊に大きな影響を及ぼすことはないかもしれない。
しかし、アテナの聖闘士の誰もが――人類の誰もが――氷河や瞬と同じ気持ちを抱き、同じように行動したならば――誰もが自分のことだけしか考えなくなったならば――やがては、この世界に、平和のために闘う者は1人もいなくなってしまうかもしれない。
これは、氷河と瞬2人だけの恋で済む問題ではないのだ。

「……」
星矢の懸念を、沙織は理解しているはずだった。
だが、それでも彼女は言ったのである。
「2人のためには、その方がいいかもしれないわね。戦場は、恋には向かない場所だわ」
「沙織さん……」
アテナのその静かで穏やかな口調に、星矢はそれ以上 何を言い返すこともできなかった。



「――と、アテナが言っていた。好きにしろ」
紫龍からアテナの言葉を聞かされた氷河と瞬は、随分と長いこと、無言で互いに見詰め合っていた。
その眼差しで2人が何を語り合っているのか、それは星矢には――紫龍にも――わからなかったのである。






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