人が優雅に恋の悩みを悩んでいられるのは、その生命を危険にさらされていないからだというのは、事実なのだろう。
翌日、沙織が手配したジェットヘリでギリシャに飛んだアテナの聖闘士たちは、聖域到着早々 その場で生命の安全を脅かすものの出迎えを受けて、恋の悩みどころではなくなってしまったのである。

「沙織さんはアテナ神殿へ! 途中でカノンにでも護衛を命じてくれ。俺たちはここでこいつを食い止める!」
星矢が沙織に1人でアテナ神殿に向かうようにと言うことができたのは、敵が複数ではなかったからだった。
そして、アテナの聖闘士総掛かりでも、その敵を倒せるかどうかの判断がつかなかったからでもあった。

アテナが邪悪ではなく不穏を感じたのも道理。
その日 聖域に到着したアテナの聖闘士たちを元気良く出迎えてくれた敵は、人間ではなかった。
無論、神でもない。
それは、一頭の巨大な獣だったのだ。

理性や知性があるようには見えないので、邪悪でもないのだろう。
アテナに敵対する何者かに操られている可能性はあったが、獣自体は、暴れたいから暴れているという様子だった。
既に白羊宮は灰燼に帰している。

星矢は冥界で、その獣にそっくりな生き物を見たことがあった。
三つ首の魔獣、地獄の番犬ケルベロス。
聖域に現われた獣は、そのケルベロスに酷似していた。
全長は7、8メートルはあるだろうか。
大きさも、おそらくはその凶暴性も、似たようなものらしい。
今 アテナの聖闘士たちの前にいる獣がケルベロスと異なる点は、その獣の頭が三つではなく二つであること、そして、ケルベロスはその口から生臭い涎を垂らしていたが、このケルベロスもどきが口から垂れ流しているものは、尋常の動物の涎ではなく、強烈な酸性の液体だということだった。
二つの頭があちこちに動くたび、それが辺りに飛び散って大理石すらも溶かしているところを見ると、その液体は硫酸どころか超強酸と言っていいもののようだった。

「あんなの身体に受けたら――」
「死なないまでも大火傷をするな」
沙織は既に金牛宮に辿り着いている。
動きの鈍いこの化け物が空を飛ぶことができるのでもない限り、アテナは安全圏に入ったと言えるだろう。
心を安んじて、アテナの聖闘士たちは戦闘態勢を整えた。

「二手に分かれるしかないな。脳みそも二つあるようだ」
紫龍がその提案を言い終える前に、氷河がそそくさと瞬の横に移動する。
戦場でも恋する男のスタンスを守り続ける氷河の迅速な判断に短く嘆息してから、星矢は、氷河に、
「せいぜい気張って、瞬の好きな顔をガードしろよ」
と、激励の言葉を吐き出した。
仲間の激励に、氷河は一瞬むっとしたのである。
それから彼は、自分の横に立つ瞬の方にちらりと視線を巡らせた。
瞬は、氷河に激励を投げかけた星矢を見て微笑していた。

やはり顔なのかと苛立ちながら、氷河は、ほとんど鬱憤晴らしを兼ねて、理性のない化け物に向かってダイヤモンドダストを放ったのである。
それは、小宇宙というより怒りを込めた拳だったのだが、化け物はいともあっさりと氷河の作った凍気と氷を、その超強酸の涎で溶かしてみせてくれた。

「なにっ」
「ネビュラチェーン!」
ともかくケルベロスもどきの動きを封じようとして、瞬が投じたネビュラチェーンまでが、その強力な酸によって溶けてしまう。
「そんなっ!」
瞬の驚愕は並み大抵のものではなかった。
ネビュラチェーンは、嘘か真か、数光年レベルなら時空さえも超えてしまう、ほとんどSF世界の武器である。
このチェーンの攻撃を退けられるのは、チェーン以上に時空を超えることのできる――すなわち、人間の意思――によって作られる小宇宙によって繰り出される拳だけのはずだった。
理性のない獣に、ネビュラチェーンがいともあっさり退けられるなど、ありえることではないのだ。

「ど……どうして……」
瞬が呆然としていたのは、ほんの一瞬のことだったのだが、その一瞬をケルベロスもどきは突いてきた。
敵は理性を有しておらず、計画性や判断力の有無も怪しい獣なのだから、その攻撃は意図してのことではなかっただろう。
というより、それは攻撃ですらなかった。
獣はただ、アテナの聖闘士たちからの攻撃に対して 不愉快そうに頭を振り動かしただけだった。
が、その動きに従って、ケルベロスもどきの口からは 岩をも溶かす超強酸が飛び散った。

傍迷惑な液体を周囲に撒き散らしている 当の獣に攻撃の意思がなく、攻撃の目的もない分、その動きは推測し難かった。
そして、敵に敵意のないことと、その動きが決して迅速ではないことが、瞬の中に油断を生じさせてしまったのである。






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