「顔は守れって言っといただろ……っ !! 」 瞬ではあるまいに、星矢の声には涙がにじんでいる。 命を捨てても守るべきだった場所が、ひどいありさまになっているのだろうことは、氷河にも容易に察しがついた。 顔、右肩、右脚が燃えるように熱く、熱すぎて痛みも感じない。 背中をやられていたら、こうして大理石の瓦礫に上体を寄りかからせて、傷付いた身体を休ませるどころか 仰臥することもできなかったに違いない――と氷河は思い、彼はその幸運を とりあえず喜ぶことにした。 氷河自身は地響きのような音でしか確認できなかったのだが、ケルベロスもどきは、友情に篤い彼の仲間たちの究極にまで高まった小宇宙の前に打ち倒され、今はその身は動かぬものとなり、地に倒れているらしい。 懸命に顔の筋肉に力を入れると 左目だけはうっすらと開けることができた。 何よりもまず瞬の姿を捜す。 それはすぐに見付かった。 瞬の頬は涙に濡れていたが、その顔は綺麗なままだった。 怪我をしている様子もない。 氷河はまず、そのことに安堵した。 そして、瞬以外の仲間に問う。 「俺の顔はぐちゃぐちゃか」 「かなり……悲惨だな」 紫龍の声には、全く抑揚がない。 安易に慰めを言わないのは、仲間ならではのことだろう。 己れの顔が今どういうことになっているのかはわからなかったし、彼には確かめる術もなかったが、氷河は 鏡の代わりに自身の脳裏に ぼんやりと、歌川国芳の描いた四谷怪談のお岩の顔を映し出すことになった。 自分の顔が お岩になってしまったこと自体よりも、これでもう自分は瞬に好きでいてもらえなくなるのだという思いが、氷河の身体から力を奪い取っていく。 口をきく力も湧いてこず、氷河は無言になった。 目を開けている力も持続が困難で、同時に目を閉じる。 それから氷河は、生まれて初めて 自分の顔を人に見られることを恥じて、その顔を俯かせた。 そんな氷河の上に、険のある瞬の声が降ってくる。 「まさか、僕がこんなことで氷河を嫌いになるなんて思ってないよね!」 否定を期待しているような問いかけだったが、その通りには受け取れない。 瞬が突然、外見よりも中身重視の日本人らしさに目覚めたはずもなく、もし目覚めたように感じられるのなら、それはかなりの無理をしてのこと、もしくは本心からのことではない――つまりは嘘なのだ。 「……いいんだ。仕方ない」 恋とはときめくもので、嘘や同情の上に成り立つものではない。 嘘で瞬に恋されるくらいなら、永劫の片思いに苦しむ方が余程ましだと、氷河は思った。 自分の方から切ってやれば、瞬は自分の嘘に苛まれずに済むのだ。 だから瞬のために――氷河はそうしたつもりだった。 瞬の刺々しい口調が明白に怒りの色を帯びたそれに変わり、氷河を怒鳴りつけてくる。 「その顔、もっとぐちゃぐちゃにしてあげようか!」 瞬は、その言葉を本気で実行しようとしたらしい。 星矢と紫龍が瞬の腕を掴んで、その暴挙を押しとどめる気配がした。 「瞬、落ち着けっ」 「だって、仕方ないなんて、あんまりじゃない……! 氷河は僕を何だと思ってるの!」 瞬をこれほど感情豊かな人間だと、氷河は思ったことがなかった。 瞬は決して感情や表情に乏しい人間ではないのだが、星矢のように感情表現が大らかなわけでもなく――その涙や微笑はいつも氷河には謎めいて見えていた。 こんなにもあからさまに、まるで子供のように剥き出しの感情をぶつけてくる瞬に、氷河は初めて接したように思う。 瞬の声は涙声だった。 氷河が瞬のために告げた言葉に腹立ちを隠せぬように、その事実が悔しくてならないように、瞬は泣いていた。 瞬は、では、顔が綺麗でなくなった男を嫌ってもいいという寛大な許しの言葉が 気に入らなかったのだろうか――と、氷河は訝ったのである。 だが なぜ気に入らないのだ――と。 「しかし、おまえは――」 氷河の反駁を遮ったのは、瞬の腕だった。 それは、氷河の焼けた肩に触れて彼を痛めつけることのないように注意深く、そっと氷河を抱きしめてきた。 代わりに、声音が激しい。 「ばかっ! 僕の目には、それが氷河なら何だって綺麗に見えるんだよっ」 唯一の取りえを失った男を責める言葉の甘い響き――。 その甘さに酔いそうになっている自分に気付き、氷河は慌てて気を引き締めたのである。 同情を利用して、瞬に恋の継続を強いるわけにはいかない。 瞬が好き 「だが、おまえは、星矢が俺に顔を守れと言った時、笑っていたじゃないか」 顔を大事にしろという星矢の揶揄に瞬が異議を唱えなかったのは、星矢が守れと言ったものが瞬にとっても重要なものだからなのだと思い、だからこそ氷河は瞬のその微笑に苛立ちを覚えたのである。 しかし、瞬は、そんなつもりで仲間の揶揄に笑っていたのではなかったらしい。 「氷河に、氷河自身を守ってもらいたかったのっ。僕は、僕のために 氷河にこんなことしてほしくなかったのに……!」 「……」 かろうじて感覚の残っている氷河の首筋に瞬の涙が触れ、その温かさが、氷河から声と言葉を奪い去った。 意を決し、勇気と力を振り絞って、瞬に尋ねてみる。 「おまえは、顔がぐちゃぐちゃの俺でもいいのか」 「大好きだよ!」 氷河を抱きしめる瞬の腕に、氷河の背にある瞬の指に、力がこもる。 おそらくは四谷怪談のお岩並みに崩れた顔の男を、瞬は平気で抱きしめていた。 その小宇宙に嘘はなく、それは瞬の涙と同じように温かで――真実だった。 喉の奥に熱いものが込みあげてきて、氷河は再び言葉を失ったのである。 やがて彼は、彼の心を温かくしているものが、瞬の小宇宙と涙だけではないことに気付いた。 |