「そろそろ夕方になるから、昼メロはこのへんで終わりにしてちょうだい」
氷河を包んでいるのは瞬と仲間たちの小宇宙だけでなく、そこにはもっと別の力を持った何か――アテナの小宇宙――が含まれていた。
そうと気付いた途端に、氷河の肩や脚、顔に感じていた痛みのような熱が、嘘のように消えていく。
氷河は両目を、全く無理せずに開けることができるようになった。
涙に暮れている瞬の後ろに、彼等の女神が双子座の聖闘士を従えて立っている。

「氷河……顔……」
己れの身に何が起こったのかは、瞬の瞳に映る自らの姿を確かめる前に、氷河にもわかった。
顔は直接自分の目で確かめることはできなかったが、焼けただれていた彼の肩と脚は――そして彼の聖衣も――今ではすっかり元の通りになっていたのだ。
無論、痛みもない。
そして、ケルベロスもどきの姿も、今は跡形もなく消えてしまっていた。

「どう? スペクタクルな昼メロは楽しんでもらえたかしら? 企画制作監修はこの私、特殊効果に カノンの幻朧拳の協力を仰いだの。カノンはケルベロスどころかキングギドラも見たことがないというから、あのわんちゃんのイメージを伝えるのには苦労したのよ」
彼女は悪びれた様子もなく、彼女の聖闘士たちに にこやかな笑みを向けてきた。
だが、その微笑に快く同調し微笑み返すことは、その場にいる聖闘士たちには到底できることではなかったのである。

「沙織さんっ」
すべてが幻影だったということはわかった。
これがアテナの画策だったということも。
しかし、だとしても――だとしたら――悪質に過ぎる茶番ではないか。
彼等が聖域にやってきたのは、聖域に不穏な空気を感じるというアテナの懸念を知らされ、聖域を守ることが地上の平和を守ることにつながると考えたからこそだったのである。
責め咎める視線を沙織に向けたのは、瞬と氷河だけではなかった。

「あら、でも、悪いのは氷河よ。だって、氷河は瞬に『顔が綺麗だ』と言われて納得していたんでしょう?」
「は?」
そう言われても、何が『悪かった』のか、自分の何がアテナの怒りを買ったのかが、氷河にはわからなかったのである。
わからないまま、彼は彼の女神への反駁を試みた。

「納得していたわけでは――」
納得していたわけではない。
氷河は むしろ落ち込んでいたのだ。
落ち込んでいたことを思い出し、氷河の気が萎える。
そんな氷河に、沙織は彼の罪状告発を続けた。

「でも、それほどのものじゃないのに――とは考えなかった。つまり、あなたは、自分の顔の造作に自信があったわけよ」
「……」
それは確かに沙織の言う通りだった。
実際、氷河は、自分を不細工な男だと思ったことは、生まれてこの方 ただの一度もなかったのだ。
氷河が沈黙するのを受けて、沙織が手にしていた錫杖を大地に打ちつける。
例のドレスを身に着けた沙織は、沈黙した白鳥座の聖闘士の前に おもむろに、そして実に堂々と、 両脚を大地に踏ん張る格好で仁王立ちになった。
そして、周囲を圧倒する迫力で、彼女は彼女の聖闘士たちに大音声で咆哮したのである。

「その程度の造作で、片腹痛いわ! 目が3つあるわけでも 口が2つあるわけでもない、ごく普通の平凡な顔! 思い上がりもはなはだしい! アテナの聖闘士にそんな傲慢は不要と考えた私は、だから、こんな手の込んだ場面設定まで準備して、あなたを矯正・再教育してあげたのよ。わざわざ あなたのためにね!」
アテナの聖闘士たちが アテナの前で唖然呆然する中、沙織の声は一層力強い響きと熱を帯びていく。
「私の聖闘士なら、そういう時には、『自分はアテナの美貌の足許にも及ばない』くらいのことを言って当然なの。聖闘士の分際で、女神である私の神々しい美しさに敵うわけがないんだから。ほーっほっほっほっ」

「あの〜……」
「沙織さん〜っ!」
どこまで本気なのか、あるいはすべてが冗談なのか――所詮人間にすぎない青銅聖闘士たちには神の真意はわからなかった。
それは仲間たちと同じだったろうに、瞬は――瞬ひとりだけは、素直に沙織の言葉に涙ながらに頷いたのである。
「本当に……その通りです。ありがとうございます、沙織さん」

沙織の中に、彼女の聖闘士の心を案じる気持ちが皆無だったとは思わないが、彼女の計画の9割は冗談と悪気と嫌がらせでできている。
これはいわゆる悪巧みに類する行為だった。
星矢と紫龍と氷河には そうとしか思えなかった。
それがわからないほど愚鈍なわけではないのに、瞬は、その悪巧みの中に埋もれ隠れている沙織の善意だけを認め、信じ、受け入れている。
ほとんど驚嘆の念をもって、瞬のそういうところが好きだと、氷河は改めて思った。






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