エルズーリー・フレイダは、ヴードゥー教における愛の女神である。 彼女に特定の夫はなく、あえて言うなら すべての男が彼女の夫だった。 彼女は彼女の神殿を訪れた男たちを輝かしい法悦に包み込む。 エルズーリーの愛の手管があまりに完璧なため、何百人もの妻たちが彼女に夫を奪われてしまったという。 「瞬がそうだというのか」 氷河が語るブードゥー教の女神の話に、紫龍は即座に異議を唱えた。 そんな淫乱な女神と一緒にされては、瞬が気の毒というものである。 が、氷河はそういうことを言いたいわけではなかったらしい。 彼は、瞬が性的に完璧だと言いたかったらしいのだ。 「完璧?」 問い返す紫龍の声が疑わしげな響きを帯びる。 氷河の言葉を嘘だと思ったわけではない。 誇張が過ぎると思ったのである。――もとい、彼は、『氷河は用いる言葉の選択を間違えている』と思ったのだ。 この世に完璧な音楽、完璧な絵画、完璧な詩、あるいは完璧な料理や完璧な人間というものが存在しないように、氷河の語る次元のことで『完璧』というものはありえない。 そこにあるのは無限のバリエーションだけである。 紫龍の異議に、氷河は考え及んでいなかったわけではないらしい。 彼は、彼が 瞬とのそれに『完璧』という言葉を用いた訳を すぐに語りだした。 「もちろん毎回同じわけじゃない。完璧なやり方があって、その手順に従って瞬は毎晩同じことを繰り返している――ということじゃないんだ。俺と瞬の体調や気分や雰囲気によって、瞬は毎晩違う。違うのに完璧なんだ。俺は瞬に不都合を感じたことがないし、満足しなかったこともないし――最初の1、2回は多少ぎこちないところもあったが、その後はすべて、瞬はまさに完璧だった」 “完璧な瞬”を語る氷河の表情は決して嬉しそうなものではない。 それが氷河にとって喜ばしい事実でないことの理由が、紫龍にはまずわからなかった。 それは喜んでしまえばいいことである。それだけのことではないか。 「性の不一致で悩む話はよく聞くが、一致して悩む話は、さすがの俺も寡聞にして聞いたことがない」 「ありえないだろう。俺は男で瞬も男だ。男女のそれでも滅多にないことが、俺と瞬の上に起きるなんて」 「おまえがどういう根拠によって、自分たちのそれを完璧と信じるに至ったのかは知らないが……。それはあれだ。瞬が演技しているということもありえるぞ」 氷河は熱愛している恋人との仲が何もかも順調で、そのせいでのぼせあがっているだけなのに違いないと、紫龍は思った。 そういうことは、恋愛の初期段階にどんな恋人同士の間にも現われる、ごくありふれた現象である。 そもそも恋とは、『この人は特別な存在だ』という思い込みによって始まるものなのだ。 もっとも氷河は、瞬とは子供の頃からの付き合いがあり、2人がそういう仲になってからのことだけを考えても、既に半年以上の時間が過ぎていたのだが。 普通なら、そろそろ思い込みの魔法も解ける頃。 その時期に氷河がこんな馬鹿げた悩みを悩んでいられるということは、そこに何者かの意思や意図が働いていると考えるのが妥当である。 この場合は――信じ難いことではあるが、恋に不慣れなはずの瞬の意思が。 |