「それはない」
氷河は即座に紫龍の推察を否定した。
その確信に至った確かな根拠も、彼は有しているらしい――有していた。
「瞬は半年前には本当に、自分が何をされるのか、自分が何をしなければならないのかもわかっていないような、まあ言ってみればガキだった。その瞬にそんな芸当ができるはずがないし――それより何より、瞬は憶えていないんだ。毎晩自分がどんなふうなのかを」
「憶えていない?」
「ああ。瞬はちょっとばかり感受性が豊かすぎるらしくて、感極まると必ず失神する。数十秒、数分間のこともあれば、朝まで目覚めないこともあるが、目覚めてから聞いても、自分が気を失うに至った経緯を全く憶えていないんだ。気持ちよかったことだけは憶えているらしいんだが、具体的なことは何ひとつ。何というか……瞬はまるで毎回死んで生まれ変わっている子供のようなものなんだ」

「毎回失神って、ヤラセまみれの馬鹿なAVじゃあるまいし、そんなの変だろ。瞬はなんて言ってんだよ? 自分が普通じゃないって わかってんのか」
訳のわからない異教の女神の話が 具体性を帯びた形而下の話になって、やっと口をはさめるようになった星矢が、氷河に尋ねてくる。
彼がしたいのは、民俗学の絡んだ高尚な性の悩みの相談を受けることではなく、身近な人間の、聞いて にやにやできる猥談だったのだ。

「それが――」
それまでは流暢だった氷河の口調が初めて澱む。
氷河が口ごもる理由に思いあたる節がなかった星矢は 僅かに首をかしげることになったのだが、氷河の言い澱みの理由はすぐに明白なものになった。
氷河は、らしくもなく、自慢の上に 自らの幸福を誇る傲慢の罪を犯すことをためらったものらしい。
「瞬は、俺を好きすぎて、俺とそうしていることが幸せすぎて信じられなくて、俺に色々されていると嬉しくて気が遠くなると言っている」
「……」

馬鹿馬鹿しくて付き合っていられない――と、正直 星矢は思ったのである。
星矢が聞きたいのは あくまでも、下世話かつ滅多に聞くことのできない(はずの)興味深い男同士の下半身の話なのであって、のろけなどではなかった。
「それって、のろけってやつか? おまえは毎回瞬を失神させるほどすごくて、瞬はおまえに惚れきってて? おまえは俺たちに『ご馳走さま』とでも言ってほしいのかよ?」

つまらなそうな顔になった星矢に、氷河がむっとなる。
彼はまなじりを吊り上げて、星矢を怒鳴りつけた。
「この事態を、俺は真剣に憂えてるんだ。これはありえないことだろう!」
「落ち着け、氷河」
男同士の下半身問題で男同士が言い争うのは、不毛に過ぎる。
声音が険しくなった氷河をなだめるつもりで、紫龍は、話を一気に採決のステージにまで押し進めた。

「まあ、普通ならありえないことだろうが――それで、おまえはどうしたいんだ。完璧な瞬が不気味だから、瞬と縁を切りたいとでもいうのか」
「そんなことはできんっ!」
異常事態を憂い悩む氷河の中で、そういう答えだけは既に出ているらしい。
答えの出ている悩みを他人に相談する人間の意図が、星矢には今ひとつわからなかった。
答えが出ているのなら、あとはそれを実践すればいいだけのことではないか。

もっとも、これが数学の計算問題のように“完璧な”答えのない世界でのことだということは星矢にもわかっていたので、彼はその本音を口にすることはしなかったが。
代わりに星矢は曖昧な相槌を打った。
「まあ、ここまで来るには、おまえも苦労したしな〜」

氷河と瞬は、普通に恋し合う男女とは違う。
普通に(?)恋する同性愛者たちとも違う。
2人は同性で、その職業はアテナの聖闘士。
地上の平和をおびやかす敵や神たちと命のやりとりを続けながら、神よりタチの悪い瞬の兄の横槍をかわしつつ、幾多の試練を乗り越え紆余曲折を経て やっと手に入れることのできた恋人。
それが、氷河にとっての瞬なのだ。
しかも、瞬は、余人が見ても得難い恋人であり、特殊な恋人である。
なにしろ瞬は、神になったこともある人間なのだ。
何もかもが普通ではない。

しかし、瞬と切れるつもりはないという氷河の即答は、そういう意味合いのものではないようだった。
即答の理由は、少なくともそれだけではなかったらしい。
「俺は、瞬以外の奴とはもうできない気がする……」
彼は、いかにも気の抜けた相槌を打ってきた仲間に、深刻な顔をして呻くように告げた。
そんな氷河を見る紫龍の目に、こころなしか同情の色を帯びる。
「まあ、たとえそれが錯覚だったとても、一度完璧と思えるものを経験してしまった人間というものは そんなものなのかもしれないが」
“完璧”を手に入れてしまった人間は、もはやそれ以上のものを望むことはできないのだ。
してみると、夢や野心などというものは叶わぬうちが花、叶わないからこそ輝いて見えるものなのかもしれない。

紫龍の同情に、星矢が脇から口をはさんでくる。
星矢はどうやら、“完璧”は一つではないという持論の持ち主らしかった。
悩める仲間に、星矢はけろりとした顔で提案した。
「そうなったら、自分で処理すりゃいいじゃん」
ある意味、それも“完璧”の一種である。
“完璧”というものを『すべてが自分の思い通りになること』と解釈するならば。
だが、氷河は、星矢の提案をも即座に一蹴した。

「それもできん」
「なんでだよ? 完璧っていうなら、あれこそ完璧だろ」
「……」
氷河が再び沈黙する。
今度は自慢・傲慢の罪を犯すことを恐れたからではなく、自らの面子を考えての沈黙らしかった。
短い沈黙の後、結局のところ、彼はその事実を仲間たちに告白したが。

「……瞬に溺れかけているこの事態を変だと思って 自分でやってみたら、何も感じなかったんだ」
「へ?」
「つまり勃たないんだ。瞬を思い浮かべてもだぞ。俺の手なんて、瞬のあれに比べたら――」
「ストップ。そこから先は言うな」
紫龍が絶妙のタイミングで氷河に自制を促す。
命を賭けた闘いを共に闘ってきた仲間同士とはいえ、そこには 言っていいことと悪いこと、聞いていいことと悪いことがある。
氷河が氷河自身のことを語る分には氷河の勝手だが、瞬の微妙な箇所の具合いまで人に言いふらすことは、あまり感心できたことではない。
何より、氷河が語ろうとしたことは、聞けば耳に毒、なことになりそうだった。

「まあ、生身の瞬がそこにいて、そうしようと思えばいつでもできるんだから、自分ひとりでやるのが味気なくても仕方ないとは思うけど」
できなくても問題はないことを、星矢が氷河に思い出させる。
しかし、氷河には氷河の考え方というものがあったらしい。
「しかし、男ってのは想像力で生きている動物だろう。現実の世界と想像の世界を比べたら、想像の世界の方が、それこそ完璧に近いもののはずだ。瞬とこうなる前にはできた。それが――」
一度言葉を途切らせてから、氷河は低く呟いた。
「俺は、自分がここまで即物的な男だとは思っていなかった……」






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