これは泣くほどのことだろうかと、星矢は無責任にも考えた。
『氷河と別れろ』という放言は、もしかしたら泣くほどのものなのかもしれないとは思う。
しかし、瞬と氷河の仲間が 瞬にそんなことを本気で言うわけがないことを、瞬は知っているはずだった。
軽い冗談のつもりだったのである、星矢は。
地味地味普通普通を繰り返す瞬をうるさく感じていたせいで、語調は少々荒くなってしまっていたかもしれないが。

驚き、次には気まずい顔になり、星矢は、唇を噛みしめて悔しそうに頬を濡らしている瞬を見やった。
氷河が、そんな瞬をラウンジの長椅子に座らせ、髪を撫でたり、耳許に何ごとかを囁いたりしながら、瞬の涙を止める作業にいそしみ始める。
泣きやんだ瞬はやがて――今度は瞬の方が、気まずそうな目をして仲間たちの表情を窺うことになった。
自分が泣くべきシーンではないところで泣いてしまったことを、瞬は自覚し反省しているようだった。

「――普通にこだわる理由を聞かせてもらおうか」
氷河の応急手当で涙の止まった瞬に、改めて紫龍が尋ねる。
応急手当のあとには、ちゃんとした治療が必要なのだ。

瞬は、最初は、紫龍の本格的治療を受け入れるつもりはなかったらしく、長く口をつぐみ続けていた。
が、瞬が沈黙を守っていても、他の誰もその沈黙を破ろうとはしなかったので――その場にいる全員が瞬の答えを待ち続けたので――結局 瞬は、できるなら口にしたくなかったことを口にしないわけにはいかなくなったのである。
「顔だけの男だ……って――」
「なに?」
あまりに瞬の声が小さなものだったので、紫龍が瞬に再問する。
瞬は、一度 大きく深呼吸してから再度、そして開き直ったような大声で、
「氷河は顔だけの男だって言われたんだよ!」
と怒鳴り返してきた。

「……」
思いがけない瞬の言葉に、瞬の仲間たちは息を呑むことになってしまったのである。
なにしろ、ここで誰が『そんなことはない』と言っても空々しいだけだったのだ。
星矢が、とりあえず氷河に意見を求める。
「氷河、何か反論は?」
「あ、いや、特には」
「おまえねー」

釘を刺したヌカでも もう少し手応えがあるのではないかと思えるような氷河の反応に、星矢が呆れた顔になる。
また泣かれる恐れがあっても 場面の進行役は瞬に任せた方がよさそうだと判断し、星矢は瞬に向き直った。
「んなこと、誰に言われたんだよ? そんなこと、フツーは思ってても言わねーもんだぞ。俺たちみたいに」
「星矢、正直が過ぎるぞ」
紫龍が、星矢をたしなめる。

そんな仲間たちに、瞬は噛みついてきた。
「氷河は顔だけの男なんかじゃないよ!」
そんなことをきっぱり言い切ることのできる瞬は大物だと、星矢は思った。
こうでなくては氷河とくっついてはいられないのだろう――とも。

同意を示してくれない仲間たちに苛立ったように、瞬の語気が荒くなる。
「顔はこんなに綺麗なのに、そのことには全然無頓着で、気取ってなくて、平気で馬鹿なこともできるし、お母さん思いだし、先生とか目上の人には礼儀正しいし、個性的なダンスだって踊れるし、時々変なことしたり言ったりして僕を楽しませてもくれるし――」
「問題は、それを長所と呼んでいいかどうかだよな」

「キ……キスだって上手だし、え……えっちだってすごいんだからっ!」
「他人には言うなよ、そんなこと」
第三者に言っていいことと悪いことの区別がつかなくなっている瞬に、紫龍は 少々苦い顔になった。
瞬は、だが、自分がまともな判断力を失っていることに気付いた様子もなく、向きになって氷河の美点を訴え続けたのである。

「氷河は、確かにちょっとどこか普通じゃないとこはあるけど、優しいし、誠実だし、他人を貶めたり見下したりしないし、嘘ついたりもしないし、氷河は――」
どれほど言葉を重ねても頷き返してくれない仲間たちに、瞬の瞳がまた潤み始める。
紫龍は慌てて、瞬の見解を(一部)受け入れる妥協案を提示した。

「大丈夫。氷河が普通じゃないことも、氷河が 自分が好意を抱いている人間にしか目を向けない男だということも、俺たちはちゃんとわかっている。安心していろ。で、誰なんだ。その正直者は」
どうせ一輝あたりがいつもの調子で、弟の付き合っている男をこきおろしたのだろう――と、星矢たちは思っていたのである。
氷河の悪口を言って得をする人間を、彼等は他に知らなかったのだ。

が、瞬の答えは思いがけないものだった。
非常に意表を突いていた。
紫龍に問われたことへの瞬からの答えは、なんと、
「知らない人」
――というものだったのだ。
これほど意外な答えはない。






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