人間は、いったい何をもって『生きている』というのだろう――? 人気のないラウンジに瞬をひとり放置しておく気にはなれず、 意識を失い感情を見せず寝たきりになっている人間を、それでも氷河は『生きている』と思う。 してみると、『生きている』とは、心臓が鼓動を打ち続けていることなのだろうか。 あるいは、血の通った温もりを有しているということなのだろうか。 そうなのだとしたら、今、彼の目の前にある もの言わぬ人形は死んでいることになる――。 氷河にはわからなかった。 瞬と二人きりになった氷河は、ぴくりとも動かない瞬の身体を抱きしめてみた。愛撫してもみた。 だが、触れなば落ちん花のように敏感だった瞬の身体の感覚は、そんなことでは蘇ってくれなかった。 面立ちは、“生きている”時そのままだというのに、そこにあるのは、ちょっとしたことで笑い、泣き、恥じらってみせてくれた、あの瞬ではない。 では、やはりこの瞬は死んでいるのだと氷河は思い、思おうとし、だが、どうしても彼はそう思ってしまうことができなかった。 そう思えない自分に気付いて、氷河は、『生きている』ということがどういうことなのかが わかったような気がしたのである。 心臓が動いているとか、脳が活動を続けているとか、そんな生物学的定義は、氷河の心には無意味なものだった。 『生きている』とは、『可能性を感じる』ということなのだ。 植物と変わらぬ生命を保っているだけの人間も、その人間を愛する者が、「この人は、この状態を脱して、いつか再び笑顔を見せてくれるようになる」という可能性を信じている限り、死んではいない。 その可能性を――希望を――捨て去ることができないから、氷河にとって瞬は『生きている』ものだった。 捨て去ることなどできるわけがないではないか。 瞬がこんなふうになってしまった理由があまりに馬鹿げていて――馬鹿馬鹿しすぎて――そんなくだらないことで、命より大切な希望を捨て去ることは、氷河にはどうしてもできなかったのだ。 |