「俺、こないだの実力テスト、ほんとに駄目だったんだ。部活もサボって、図書館にいる時間も普段より1時間も長くして、塾にだって行って、いつもより頑張ったつもりだったのに。クラスの奴等に笑われて、親には溜め息つかれて、滅茶苦茶落ち込んで、学校にも家にもいたくなくなって、あちこちふらついて、ここに来て、それであんた――君に会った」

“子供”が語り出したのは、明確に愚痴だった。
予想していたこととはいえ、氷河は心底からうんざりして、さっさと隣りのテーブルに移動したのである。
もちろん、二人のやりとりに聞き耳は立てていたが。
瞬は真面目に こんなふざけた子供の相手をするつもりなのかと、氷河は少々腹が立った。

「瞬でいいよ。僕、瞬っていうんだ」
「瞬――」
『僕』という一人称、一般的には男子のものとされる名前――を聞かされても、子供は瞬を男だと気付いた様子を見せなかった。
彼は ただ微かに頷いて、自分が一度口にしたことを瞬に示された名前で言い直しただけだった。
「瞬に会ったんだ。優しそうで可愛くて、それに、いつも一人でいただろ。だからきっと俺のこともわかってくれるに違いないって思った」

子供は、勝手に氷河を『恵まれた奴』と決めつけたように、瞬をも勝手に『自分をわかってくれる相手』と決めつけている。
その期待を裏切られたら、彼は同じように勝手に瞬を憎むのだろう。
氷河は内心で、『もうやめろ』と瞬を怒鳴りつけていた。

「瞬に会えるのを期待して、毎日ここに通った。でも、先週瞬はずっとここに来なかったろ。だから、ちゃんと告白して、名前や電話番号を聞いとかないと、二度と会えなくなるかもしれないって不安になったんだ」
「ああ」
瞬が小さく、溜め息のような声を洩らす。
先週、瞬は、仲間たちと共に聖域に出掛けていた。
もちろん、聖域を脅かす敵が現われたからである。
瞬はそこで命懸けのバトルをし、敵を倒し――敵を倒すことで自らも心に傷を負い、日本に帰ってきた。

同じ国に住み、同じ言葉を話し、同じ店を好んでも、テストの成績に悩む子供と アテナの聖闘士である瞬は全く違う世界に住んでいるのだ。
その事実が、瞬の笑顔に翳りを帯びさせる。
やはり黙って話を聞いていられなくなった氷河は、殊更大きな声で横から口をはさんだ。

「人を見る目があることだけは褒めてやろう。で、瞬と“お付き合い”できるようになれば、おまえは瞬に優しくしてもらえて、出来のいい学校の友達にも瞬を見せびらかすことができると考えたわけだ」
「瞬みたいに可愛い子は、学校にも塾にもいないから」
「……」
否定もせずに頷く子供に氷河は呆れ、瞬は実に複雑そうな面持ちになった。
『友人に見せびらかせるほど可愛い』という言葉で、この子供は瞬を褒めたつもりでいるらしい。
少なくとも、彼がそう思っていることが瞬への侮辱になるとは、彼は考えてもいないようだった。

「瞬を高嶺の花と思わないあたり、図々しいというか、身の程知らずというか……」
子供の無謀に、氷河はもはや嘆息するしかなかったのである。
瞬とこの中学生は、確かに歳だけは大して違わない。
だが、その生き方と 物ごとの捉え方には、別次元の住人といっていいほどの隔たりがある。
瞬と この身の程知らずの子供の位置関係は、しいて例をあげるなら、芸事やスポーツの世界でのプロや有段者と、初心者・素人のようなものだった。

初心者や素人は、相手が自分より強く優れていることはわかるが、その差がどれほどのものなのかはわからない――見極めることができない。
だから、それを大した差ではないと思う。
自らが力をつけることによって初めて――その差が縮まることによって初めて――皮肉なことに、彼は両者の間にある実力差が甚大なものだということに気付くのだ。

聖闘士になるため、生き延びるために、瞬がこれまでどれほどの努力をし、試練に耐え、どれだけのものを失い、苦しみ、涙してきたのかを、この子供は知らない。
何かのために命を懸けたこともない子供に、瞬を理解することはできない。
まして、瞬を 友人に自慢するための手段としか思っていないような子供が、瞬との“お付き合い”を望むなど言語道断である。

「貴様、いい加減にしろよ! この俺でさえ――」
氷河は、いい加減に腹が立ってきてしまったのである。
そして、子供相手に大人げないと思いつつ、その怒りを露わにしようとした。
へたをすると、この子供はその無思慮ゆえに瞬を傷付けかねない。
氷河は、それだけは阻止しなければならなかったのだ。
だが――。

だが、瞬は、怒り心頭に発している氷河を静かに遮った。
氷河にも思いがけない言葉で。
瞬は、その子供に、
「わかるよ」
と言ったのだ。
本当の意味で努力をしたこともない子供に、心から同情したように、優しく。






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